昨夜の『ジェネジャンSP』テーマは「自殺」

■自殺の話ばかりで申し訳ないが、昨夜たまたまテレビを見ていると、堂本光一司会の日本テレビ系列『ジェネジャン GENERATION JUNGLE』という番組のスペシャル版が自殺を取り上げていた。一般視聴者からのゲストは、集団自殺の首謀者や自殺志願の若者たちである。昨年この番組に出演して肺ガンで余命1か月であることを告白した若者がいたらしく、その後この若者が自作の長編小説を出版し、その直後に亡くなったというエピソードが番組の中で紹介されていた。そのエピソードから、ゲストである集団自殺の首謀者に自殺について考え直させるという内容だった。
もちろん番組の制作者は「自殺は悪である」という大前提に立ち、すべての自殺志願者に自殺をやめるように呼びかける趣旨でこの番組を作ったに違いない。というより、そうとしか解釈できない番組の作り方だった。お笑い芸人のまちゃまちゃは、最近、自殺した友人のエピソードを紹介し、葬儀のとき大勢の「友だち」が棺を囲んで号泣していた、その場面を死ぬ前に一度でいいからそいつに見せてやりたかったと、涙ながらに語っていた。
しかし、世の中の自殺者のほとんどは、こうして番組に出演依頼されることもなく、ひとり静かに死んでいく。そして、まちゃまちゃの友人のように、ほとんどの自殺者は死んだ後に初めて同情され、悲しみの対象となる。自殺者の死に涙を流す人たちは、その人の死を惜しんでいるのかもしれないし、自殺を止められなかったことを悔やんでいるのかもしれない。
しかし、ひどく皮肉な言い方になるのを恐れず書かせてもらうと、残された人々の悲しみはすべて偽善である。自己満足である。死んでから泣くぐらいなら、死ぬ前に共に泣くべきだろう。死んでから自殺を止められなかったことを悔いるくらいなら、死ぬ前に止める努力をすべきだったろう。こういう皮肉な反論が可能なのは、そもそも自殺志願者の死を思いとどまらせることが無条件に「善」であるという考え方があるからだ。
自殺そのものは善でも悪でもなく、単に一人の人間の選択の結果である。人間は朝食をごはんにするかパンにするかという選択と同じように、明日も生き続けるか死んでしまうかという選択もする能力を与えられてしまっている。たしかに「生きていれば良いことがあるかもしれない」が、それとまったく同じ確からしさで「生きていても何も良いことはないかもしれない」ということも言える。どちらを選択するかは、その人にまかされているのだ。
自殺志願者に「死ぬな」と呼びかけるのは、そういう意味でとても傲慢である。自分は相手の人生を生きているわけではないのに、相手の人生に生きる価値があると勝手に決めているからだ。しかしその人にとっての生きる意味というのは、その人にしか理解できない。その人にとっての生きる意味を決めるのは、他の誰でもなくその人自身なのだ。
だとすれば一人の人間が自殺を選択することについて、周囲の人々が「生きろ」という意味の言葉をかけるのは、自殺を選択しない側の人々の傲慢さ以外の何ものでもない。目の前にいる人がもし自殺志願者であることが分かったら、僕ならばさしあたり言うべきことは一つだけしかない。「それって単なる病気かもしれないから、心療内科に行って薬をもらってみたら」。もし病気でなければ、それ以上何ができるというのだろうか。その人に代わってその人の人生を生きることなどできないのだから。