高橋哲哉『靖国問題』

■下記の日記の「難しい本」の一冊が、先週なかばから読んでいた高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)である。いつもながら高橋氏の理論は明晰で、方法論は一貫している。その方法論というのは、自分の主張を饒舌に語るよりも、さまざまな関係者の発言の記録や著作を引用して、それらの資料に「語らせる」ことで論理的な矛盾点を暴き出していくという、正統派の哲学論文のスタイルである。本書でも大量に引用された資料が自らの論理的な破綻を露呈していく展開がスリリングで、堅いテーマをあつかった新書であるにもかかわらず、痛快に読みすすめることができる。
本書前半の趣旨は第四章冒頭に、著者自身によって要約されている。
・靖国神社は、戦死の悲しみを「お国」のために死ぬ喜びに転換させ、国家が国民を徴兵しやすくするための、一種の感情変換機である。(第一章)
・A級戦犯合祀問題は靖国問題の一部にすぎず、靖国神社の本質は、明治維新以来、日清・日露の戦死者を含む国家のための殉死者を祀ることで、植民地支配の英雄を英霊としてあがめることで、植民地支配を正当化することにある。(第二章)
・「神道は宗教を超えた日本人の自然な信仰心である」というロジックこそ、明治以来、キリスト教や仏教を国家神道に従属させるために国家が利用したロジックであり、靖国神社を非宗教的な追悼施設にすればいいという議論は危険である。(第三章)
そして第四章はもっぱら江藤淳の靖国神社擁護論の論理的な矛盾を、徹底的に暴くことに費やされている。江藤淳は靖国に見られる日本人の死者に対する観点は、日本独自のものだと述べると同時に、他国にも共通のものだとも述べており、完全に論理的な破綻をきたしている。日本固有の文化という観点からも、靖国神社の存在を擁護することは不可能であり、むしろ「国家に殉じた人々をあがめたてまつる」ということは、古くは古代ギリシアの時代から行われていたことだということが示される。
そして、問題の最後の第五章「国立追悼施設の問題」となる。この章ではじめて、高橋氏自身の主張がはっきりと述べられている。そしてこの主張に賛同できるかどうかが、本書を読むに値する本と考えるか、某漫画家のように「無知」のひとことで斬り捨てるかの境目になる。高橋氏は日本国家に完全な武装放棄を求め、それなくして靖国神社を真に非宗教的な追悼施設に変えることはできないと論じているのだ。
たしかに論理的にまったく矛盾のないかたちで靖国神社を存続させようとすれば、そうするしかないというのは本書を読めば理解できる。しかし、論理的な矛盾をあえて実行に移すのが政治の本質だ。高橋氏の意見はあまりに理想主義的ではないかと反論したくなる。
しかし、こうした反論を先取りして、高橋氏はこの『靖国問題』の後に執筆した『国家と犠牲』(NHKブックス)で次のような意味のことを書いている。絶対的な絶望の中でも、あえて理想を目指す態度こそが正しい態度なのではないか。つまり、政治がまったく論理的な矛盾だらけだからといって、それを受け入れてしまっては何にもならない。政治に絶対的に絶望しているからこそ、あえて理想的な状態を希求することこそ大事なことなのではないか。
絶対的な絶望と、一種の絶対的な希望とが、奇妙に同居しているのは、高橋氏の書物の抗しがたい魅力でもあり、それこそ本当に「倫理的なもの」の姿なのかもしれない。
ちなみに某漫画家が本書を「無知」のひとことで斬り捨てることができているのは、彼が高橋氏とは逆に、まず自己主張ありきで、その自己主張にしたがって世界を解釈するという近代的自我の自己同一性、「私は私である」という幻想にいまだに取り憑かれているためだ。
その意味でこの漫画家はとてもモダンな人物であり、彼からすると高橋氏のように資料自体の論理に語らせる方法は、自己がからっぽな証拠であり、つまり「無知」だということになってしまうのだろう。大半の日本人にとっては、資料によって脱構築された自我よりも、この漫画家のような「近代的自我」の方がわかりやすいのもまた事実ではある。

高橋哲哉『靖国問題』」への0件のフィードバック

  1. 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG

    高橋哲哉『国家と犠牲』を肴に<高橋哲学>の非論理性をクロッキーする

    高橋哲哉さんは<哲学者>を名乗っておられる。確かに勤務先大学でも「哲学」を講じられ、そして、若い頃から廣松渉さんのサークルに属しながら、ほぼ一貫してフランスの現代思想を中心に<哲学>を研究してこられたのだろうから、まあ、彼が<哲学者>を名乗っても経歴詐称ではないだろう。しかし、「哲学と言ってもいささか広うござんす」である。そして、他の科学や政治的な言説に<font color=blue>「論理的な正しさの根拠を提供することが哲学の役割の一つである」</font>ことは高橋…..