過程の陳腐さが結果の独創性を担保する

■ビジネス戦略を考えるという行為は非常に不思議である。デカルト風の誇張懐疑の手法を使って、自分が当たり前と考えていることをすべて疑っていけば、それぞれの業界で常識と思われていることなど簡単に捨て去ることができる。しかし、ビジネスの世界でこの方法的懐疑を押し進めすぎると、確実にどこかでただのナンセンスに突き当たる。
では、どこまでがビジネスとして有効性のある「斬新なアイデア」で、どこからが「単なるナンセンス」なのか、その境界線を演繹的に決定することはできない。演繹的に定義できないということは、仮説、検証のサイクルを繰り返すことで、帰納的にその境界を定めるしかないわけだ。つまり、やってみてダメなら、それは「単なるナンセンス」だったということが後からわかる、ということだ。
ところが問題をもっと複雑にしているのは、仮説、検証を行うビジネス環境そのものが、時とともに変化しているということだ。ある時期に失敗したものが、別の時期に成功することもあり得る。業界経験が長い人ほど「斬新なアイデア」と「単なるナンセンス」の境界線をより保守的に見積る確率が高いが、業界経験の短い人は「単なるナンセンス」の試行に経営資源を浪費する確率が高い。こういった問題に対しては、より多くの人の意見を聴くことが有効なのか、自分の信念にもとづいて仮説を立てることが有効なのか、それさえ事前に決定することができない。
一言で表現すれば、ビジネス戦略を練る行為は、純然たるバクチに限りなく違い。こういう問題系を相手にするとき、僕は正直言ってどう対応すればいいのか、ただ途方に暮れるだけだ。その点、社内SEとして利用者の要求を実現する過程で突き当たる問題群は、大部分が安定している。問題への対処方法を事前に決定できる。
しかし、本当にビジネス戦略を考えるという行為は、事前にコントロールできないバクチのような行為だろうか。僕がかつてドイツ人の上司から学んだことの一つに「方法論において独創性はいらない。独創性が求められるのは結果である」ということがある。
ビジネス戦略を考えるプロセスに独創性はいらない。教科書どおりにコントロールすべきである。真の問題は、その結果として産み出される戦略に独創性があるかどうかだ。プロセスさえコントロールできないのでは、産み出された戦略が戦略と呼べる代物なのかどうかさえ確認不可能になってしまう。