國分康孝『カウンセリングの技法』

國分康孝『カウンセリングの技法』(誠信書房)を読んだ。先日読んだ『カウンセリングの理論』もそうだが、カウンセリングについて体系的な知識のまったくない人が、手軽に耳学問するには最適の本ではないか。ただ、概論書を2冊たて続けに読んでそろそろ食傷気味になってきたので、ここらあたりで各論に入らねばと、いま同著者が編集した『論理療法の理論と実際』(誠信書房)を読み始めている。
論理療法とは環境を変えるよりも、まず本人の考え方を変えることで問題を軽減して、本人が環境に働きかける力を持てるようにするカウンセリング方法らしい。理論的には折衷主義で、「自分のことは自分で決める」という主体的な選択を重んじる実存主義分析の影響も受けているらしい。
しかし同書のケーススタディを読んでいると、カウンセラーによって同じ論理療法でも実践のしかたはさまざまで、僕からすると来談者がカウンセラーを神格化しすぎではと感じられるものもある。来談者がそうなることを求めているならそうするというのが真の来談者中心主義であり、ロジェリアンのようにただ傾聴するだけではなく、論理療法は積極的に来談者に指示を出して、考え方の変容を迫るものだえるというのも理解はできる。
しかし論理療法上irrational belief(本人の非合理な思い込み=論理療法の用語)と考えられるものであっても、極端な話、社会や組織を変革しようとしている人々にとっては合目的的であってrational beliefな場合もある。このような反論に対して論理療法はこう反論するだろう。その人にとって合目的的ならrational beliefなのだから、変革者が一部の問題を一般化するのは、普通の人にとってirrational beliefであっても、変革者にとってはirrational beliefだと。
そうすると残る問題は、その合目的性をいったい誰が判断するのかということだ。おそらく論理療法はこの問いに対して、実存主義的に「それは本人が判断するのだ」と答えるのだろうが、その判断そのものがirrational beliefにもとづいていたとしたら、論理療法は一体どうすればいいのか。
たとえば僕が僕自身のことを「サラリーマン社会の変革者」と考えていたとする(本当にそう考えているわけではないので、念のため)。このbeliefが正しいなら、サラリーマン社会という環境とのあつれきに僕が苦しむのは合目的的なので、論理療法が取り上げるべき問題とはならない。しかし自分を「サラリーマン社会の変革者」と考えること自体がちょっとした妄想なのかもしれない。こういう来談者に対して、カウンセラーはどう指示するべきなのか。
こういう問題提起に対して、おそらく論理療法は「カウンセラーがなすべき指示には、唯一の正しい正解があるという考え方そのものがirrational beliefである」と答えるだろう。しかし、そうなるともう相対主義の泥沼ではないか。どうやら折衷主義のカウンセリング理論は、最終的に相対主義とどう対峙するかという壁に突き当たるのではないか。カウンセリングの本を読み進めるにつれて、そのように考えざるを得なくなってきた。