楽器店のバッハ少年

■先週の週末、暇つぶしに近所の楽器店に入ると、バッハのオルガン曲の旋律が聞こえてきたので、その上手さに思わず音のする方を振り返った。電子ピアノの音色をパイプオルガンに変えて、その短調の旋律を弾いていたのは10歳くらいの少年だった。バッハのオルガン曲といっても誰もが知っている『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』の例の冒頭のフレーズだけではなく、僕が持っている『トッカータとフーガ ジルバーマンの傑作オルガンによるバッハ・コンサート』というCD-ROMに収録されている、それほど有名ではない曲のフレーズも弾いていた。たしかに内向的な感じはあるが、まだ幼い顔立ちと、バッハの重厚な短調の旋律があまりに対照的で驚いた。
しかし今日、それがそのときだけの出来事ではなかったことを知った。
暇つぶしに同じ楽器店に立ち寄ると、同じ少年が今度は携帯型の安いキーボードでバッハの旋律に没頭していたのだ。色あせた暗い灰色の綿パンに、くすんだ紫色のポロシャツを無造作に突っ込んでいる。店にいる人たちに聞かせるというよりも、自分の指先が生み出す音に必死で耳を傾けている様子で、少し近寄りがたい雰囲気さえただよわせていた。店での演奏にのめりこんでいることからして、自宅には楽器がないのだろう。数万円のキーボードさえ買う余裕のない家庭の少年が、どうやってバッハのさほど有名でない旋律を知り、弾けるようになったのか。小学校の音楽の授業で聞き知って、音楽室のピアノで練習したのだろうか。僕自身、もし鍵盤楽器が弾けたらバッハの幾何学的に美しい旋律を弾くことに没頭するに違いない。自分の音の世界に閉じこもっている少年の横顔に、少しシンパシーを感じた。