「これあげます」と銀のペアウォッチ

■先日、駅から自宅へ歩いて帰る夜道、背後から車高の低い旧型の真っ白なグロリアに追い越されたかと思うと、目の前ですうっと停車した。
ちょうど僕が通り過ぎようとしたときに、運転席側の窓がするすると開いて、ふっくらした顔に銀縁のメガネをかけた人の良さそうな笑顔であるにもかかわらず、ぴっちりと油の効いたオールバックという運転手が、「ちょっとすみません。道をたずねるってわけじゃないんですけど」と話し始めながら、助手席に座っている黒ずくめの人物から受け取った、青いベルベット生地の小箱を僕に差し出すように開いた。
「これ、もったいないんであげますよ」と、銀色に輝いたペアウォッチを視線で示しながら、セールスマンのように押し付けがましくもなく、その筋の自由業の方々のようにぞんざいにでもなく、凡庸な会社員のような口調で話す。ただ、助手席に座っていて、僕の目線からはその胸から上がまったく見えない黒いスーツの人物が、無言のままなだけに怪しげな空気をただよわせていたので、僕は半笑いで「いや、結構です」と自然さを無理に装いながらその場を立ち去った。
走り去るグロリアをあらためて眺めると、後部座席の左右のガラスも、リアガラスも黒い目隠しになっていて、やっぱりあやしすぎる。もし僕が「ありがとうございます」とでも言ってあのペアウォッチを受け取ろうとしたら、一体何が起こっていたのだろうか。
手を差し出した瞬間に助手席の人物がその僕の手首を握るなり車内に無理やり引きずり込んで、身代金目的の誘拐事件の被害者になっただろうか。それとももっとスマートな方法で、手を差し出した瞬間に音もなく銃口が差し出され、「殺されたくなかったら後ろに乗れ」と言われたか。誘拐でなければ何だろうか。
強盗にしては、しがないサラリーマンが獲物になるはずなどないし、もしかするとあの腕時計には超小型の発信機が埋め込まれていて、僕の会話をすべて盗聴され、それをネタに後から脅迫されることになっていたのだろうか。いまだによくわからない不可思議な体験だ。