夢の中の見知らぬ土地の地図

■見知らぬ土地が舞台になっている夢を見るたびに不思議に思うのは、夢の中に何度もその土地の地図が出てくることだ。ちょうど史実に基づいた映画か何かで事件の起こった場所を観客に分かりやすく示すために、当の場所が赤丸で印づけられた地図が画面に登場するように、夢の中で僕はその土地に棲む人たちの一人に過ぎないにもかかわらず、自分の現在地を確認するための町の全体図を繰り返し思い描くのだ。
町の住民の中で自分だけがその世界を一つの全体として、境界線で区切られた有限な空間として表象する特権を得ているかのように。また、自分だけがその世界は無数の可能な世界のうちの一つでしかなく、他の世界に自分が存在しなかったのは何かの偶然の産物でしかないことを知っているかのように。町の地図、というより俯瞰図と言ったほうがよい町の全体像は、その外に向かってさらに別の世界が広がっていることを暗に示していて、自分が本当にたまたまその町の枠内に生活しているに過ぎないことを強調するかのようだ。
そんな夢の中に土地にとって僕はただ一時的に逗留しているだけで、だからといってどこからその町へやってきたのか、これからどこへ行くのかは分かっていない。唯一確かなことは、たとえ数年間その土地で生活するにせよ、飽くまで一時的な滞在に過ぎないことが初めからわかっているということだ。
そのわりに僕にとってよそよそしいその土地の全体を平面図で思うままに表象することができている。土地に暮らすものの一人として全体の地図をたびたび想起する必要があるとすれば、それは町の中を道を間違えずに移動するためとしか考えられないのだが、では何のためにそれほど頻繁に出歩かなければならないのかは夢の中で明らかにされることはない。町全体の俯瞰図を表象することで、単に自分がこの町の地理をよく知っているということを確認したいだけなのかもしれない。
そういえば数日前、東京の下町に埋もれて建っているコンピュータ収容施設(専門用語ではデータセンターと呼ぶ)を仕事の関係で訪れたが、小さな戸建てがひしめく中をぬって路地が這い回っているような住宅街を抜けて無事施設にたどり着いたときは、自分の方向感覚の的確さを再確認したものだ。道標もないまま見えない目的地を目指すとき、僕の脳裏にはその土地の俯瞰図が正確さの保証もないまま、いつの間にか現れ、現在地が赤い丸でマークされている。
その実体験があったために、数日後の夢の中でも繰り返し町の全体図が出てきたと考えるのは自然だろう。夢の中の土地にははっきりと名前があった。「豊橋神明」という名前だ。インターネットで検索すると実際、愛知県豊橋市に神明神社が実在するが、まったく関係ない。いったい何のために僕は夢の中で豊橋神明という町で生活するようになったのだろうか。それを言うならまず、いったい何のために僕は現実の世界でいま住んでいる町で生活するようになったのかを問わなければならないだろう。