レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』

■マイケル・ムーア監督『華氏911』を観たということで、この映画の題名の元ネタになっているレイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』(ハヤカワ文庫)を読まねばなるまいと思い、今さらながらではあるが昨日から今日にかけて読んでみた。
皆さんご承知のように「ファイア・マン」が消防士ではなく焚書を任務とする人々を意味する近未来の話で、書かれたのは第二次大戦後、米国でレッドパージの嵐が吹き荒れていた頃というから、極めて政治的な空想小説だ。『華氏911』の参照元になっている理由もうなずける。
映像や音楽の氾濫が人々から考える時間を奪い、戦争で大勢の人が死んでいるということがますます現実味の薄いものになっていくという、『華氏四五一度』の基本的な舞台設定は、まるで現代の僕らが生活しているこの世界そのものではないかというのは、この小説について繰り返しなされる指摘だ。ただしその対抗軸として「書物」に象徴される啓蒙主義を持ってくるのは、現代においてはそれほど有効な施策ではないだろう。
愚民化政策の成功は、文字よりも映像や音楽を選択したという媒体の差異に帰せられるものではない。映像であっても「批判的な映像」は存在するし、音楽であっても「批判的な音楽」は存在する。文字媒体でなければ批判は成立しないという主張は、文字を武器にした権威主義だと批判され得る。本当の意味で愚民化政策を推進したい政府なら、焚書よりもむしろ、無批判な書物を社会に氾濫させる方法を選択するだろう。
無批判な映像・音楽・書物の氾濫。こちらの方が現代の僕らが生活する世界にはるかにぴったりする形容だ。媒体はなんでもよい。とにかく受け手に疑問を抱かせず、自己確認の契機しか与えないような、否、自己確認を行うためにはまず自己の外に出る必要があるのだから、自己を外から眺める契機すら与えないような、無批判なコンテンツを、あらゆるメディアを通じて氾濫させることで、本当に人々の「思考」を停止させることができる。
その意味で、文字媒体と映像を対照的に描写するブラッドベリの、新技術嫌いはややナイーブという感じがするが、ようやく映像媒体が登場し始めた時代の限界なのかもしれない。今、誰かが現代版の『華氏四五一度』を書くとすれば、媒体の差異は本質的な差異ではないという前提を置くだろうし、現にマイケル・ムーアは映像媒体で批判を行っている。そういえば『華氏四五一度』を映画化したフランソワ・トリュフォー含むヌーベルバーグも、それまでのフランス映画に対する批判を映像で行ったのだった。