差別は合法的であるがゆえに機能する

■とある読者の方から過日の「TSUTAYAは女性差別企業だ」というエッセーについてコメント頂き、差別とは「特定の人間を限定的に区別し、不当な扱いをすること」だからTSUTAYAが単独で有効な証明書として運転免許証を挙げていることは女性差別にならないと指摘しておられた。
同じメールのなかで外国人に指紋押捺を義務付けることは差別ではないと主張しておられたので、僕との考え方の差異がはっきりした。この読者の方は指紋押捺が合法の判決を受けたという事実にもとづいて、それが差別でないとお考えのようだが、そもそも差別は合法的になされるがゆえに差別として機能するのである。
もし違法であればそれは差別ではなく、純然たる違法行為ではないか。法制度を援用して行われるからこそ、その行為は差別と呼ばれるのであって、合法の判決を受けたという事実はむしろ、指紋押捺が立派な差別であることを裏付けている。
そのように、特定の人間を限定的に区別し、不当な扱いをするような差別は、客観的に分かりやすいが、そもそも差別はそんなに分かりやすいものではないのだ。一見事務的な手続きを装いながら、間接的に実際上の不利益をもたらすのがむしろ現代の法治国家における差別というものではないか。
セクシャルハラスメントにしても法制度は、常に事実としての差別を後から追いかけることしかできない。つまり差別は、差別と認識されたときには常に合法的な行為なのである。残念ながらこの読者の方は差別の本質をまったく理解されていないようだ。