吉田修一『パレード』

■吉田修一『パレード』を読み終えた。一昨日に「思いのほか『いい話』だ」と書いたのは部分的にはその通りなのだが、最後まで読むととんでもない深淵がぽっかりと口を開ける。深淵がぽっかりと口を開ける部分までの、普通に「いい話」の集積として成り立っている物語が、実は最後に明らかになる深淵の上にしか成り立ち得ないということがその深淵の出現そのものによって明らかになる。
この小説は語りの上ではメタフィクションになっていないのだが、それまで普通の青春群像だと思って読んでいた小説が、最後のところで、実は登場人物が全員その深淵を知っていながらも(そして同時に知っているからこそ)そのような小説として成り立っていたのだということが突然明らかになるという意味では、一種のメタフィクションとして読んでいいのではないか。
物語の中で実際に起こっている事件の真相を、登場人物の全員が知りながら知らないふりをすることで、登場人物の物語の中での存在そのものが辛うじて成り立っている。登場人物の全員が知りながら知らないふりをしていた当の事件が、小説全体を一挙に二つの層に引き剥がし、それまで単なる青春群像として読んでいた物語が決して単純な青春群像ではなかったことが露呈する。この「開け」があまりに衝撃的なので、引き剥がされた層のうち背後にあるものが、読者の現実の側にまで押し寄せてきて、一種のメタフィクションのような印象を与えるほどなのだ。