理性による介入は常に問題を解決するか?

■会社の組織の中で起こっていることのすべてを人間の意思の力でなんとかしようという欧米人の発想は、傍で見ていて涙ぐましく感じられる。
独立した意思を持った人間がたった数十人が集まっただけでも、人と人との間の相互作用が、表にあらわれるものも無言のかけひきも含めてどれだけ複雑になるかは、ゲーム理論などを援用するまでもなく想像もつかないほどなのだ。そのように組織の中で時々刻々と変化する人間どうしの相互作用を、一人の人間が介入して秩序だったものにしようとして成功するのは、ごく限られた場合だけであることはいうまでもない。
まして日本人と欧米人という、大きく異なった文化的背景をもつ社員が混在しているのだから、人間の介入によって組織内ではたらく力関係や考え方を変化させるのはきわめて難しい。ところが欧米人は、社員一人ひとりに定義されている役割と責任にしたがって、一人の担当者が、たとえばある規則を決めれば、他のすべての社員がいつかは必ずそれにしたがうようになると考えているのだ。
そして思ったように事が進まなければ、根気よくその規則の有効性を説得するというふうにして介入すれば、組織は最後には秩序立ったものになると考えている。人間の主体的な意思によって組織に影響を与えることができるという彼ら欧米人の信念は、日本人から見ると、あまりに素朴すぎる考え方だ。エゴサントリスムというのか、啓蒙主義というのか、主知主義というのか、呼び方はどうでもいいが、とにかく個人というものをあまりに信頼しすぎているのだ。
おそらくほとんどの日本人は、場合によっては組織の相互作用をそのままにしておいて自然のなりゆきにまかせた方がうまくいう場合もあるということを知っている。欧米人は、なりゆきにまかせることを無責任だと考えるようだ。
その証拠のひとつとして、先日とあるセミナーで欧米人の講師がコミュニケーションという主題について次のようなことを話していた。「コミュニケーションをしないということは不可能である。なぜなら、何も言わないことも何かを伝えることになってしまうから。だから言うことがなくても、何かを言うようにしよう」。
日本人だとぜったいこういう結論にはならず、「何も言わない方がいいときもある」となるだろう。自然にまかせるというのは別に無責任なことではなくて、少し前に流行った「複雑系」ではないけれども、一人の人間が意識的にコントロールできる範囲というのは限られていて、個人の能力の限界を知っているということなのだ。
ところが一般の欧米人はいまだにカント以前の時代を生きていて、一人の人間の理性の能力が無限だとでも考えているらしく、どこまでいっても理性的な判断にもとづく介入によってものごとを良くできると信じている。この素朴さは微笑ましくもあるし、涙が出そうでもある。この人たちはまだ合理主義の時代に生きているのだな、という具合に。