サラリーマン社会では常に既に異邦人の僕

■たびたび読者の方々から頂く感想のメールに、かえって自分自身がぎょっとさせられるということがあるのだが、最近頂いたものに「サラリーマン社会」の中にあって自分の考えを貫いて生きる僕にある種の痛々しさを感じるということが書いてあった。
僕としてあえて訂正させて頂くと、僕はサラリーマン社会の大勢をしめる考えに対抗して自分の考えを貫いているのではない。はじめからすでに僕の考え方がサラリーマン社会になじまないものだっただけであり、ともに働く人たちを客観的な目で見つめているのも、サラリーマン社会に馴染むまいとする強い意志からきているのではなく、はじめからすでにともに働く人たちを客観的な目で見るより他の見方ができなかっただけなのだ。
異邦人になるべく努力しているわけではなく、はじめからすでに異邦人だったのであり、異邦人になるまいとすればするほど、自分の異質さを意識せざるをえないという一種の循環に陥ってしまっているだけなのだ。いちど疑ってしまったものは、二度と疑う前の素朴な信念の状態にさかのぼることなどできない。
残されている唯一の方法は、疑っている自分を疑い、そこから疑っていた対象の妥当性をいくらか救うことだけなのだが、自分を疑うことでかえって疑うという操作の適切さがいっそう強く根拠づけられてしまうのだ。疑うことが唯一の方法である、という具合に。