保坂和志の哲学に関する記述の稚拙さ

■保坂和志と小島信夫の往復書簡集『小説修業』を読み終えたのだが、どうも保坂和志の哲学についての論述は素人くさくて読んでいるこちらの方が恥かしくなってくる。哲学についての記述があまりに稚拙なので、この書簡集でも保坂氏のせっかくの小説論が台無しだ。
たとえば、一人の人間が生まれる前にも死んだ後にもこの世界は存在し続けているのだということは、それほど繰り返し力説するようなことだろうか。自分の生まれる前と死ぬ後に世界は存在しない、自分の見ているものがすべてだと信じているような人が、果たして世の中にどれくらいいるだろうか。むしろ自分とは独立して世界は存続していると信じている人のほうが多いのではないか。
保坂氏はこんなことをやっきになって肯定したり否定したりする必要はまったくないのに、どうしてこうも同じことを繰り返し書くのだろう。元会社員としての保坂氏の周囲にあまりに凡庸な人間が多すぎたということだろうか。それとも保坂氏は生まれてから小説を書き始めるまで、いちども自己と世界の問題について考えたことがなかったというのだろうか。
たとえば科学の発展について保坂氏は、宇宙には人間とは別の原理がある、などと書いているが、その原理がどんなものであるにせよ、原理と呼ばれるからには人間が宇宙に勝手に与えたお荷物のようなもので、宇宙がもともと持っていたものではなく、人間の産物ではないか。
なのに保坂氏は宇宙の原理というものが、人間とは独立して存在するなどということをあっさりと書いてしまうのだ。本当に保坂氏のいうように、宇宙をふくめた世界全体が人間のあるなしにかかわらず独立して存在しているなら、宇宙にとってみれば、自分に原理があろうがなかろうがどちらでもいいことで、わざわざ人間が原理といったものを自分の中に発見して、そう名づけてくれるのは、大きなお世話だろう。
逆に人間が宇宙の中に発見する原理に価値があると保坂氏が言いたいのなら、宇宙の存在は人間のあるなしに関係ないとは言えないはずだ。科学や哲学について論じたところでボロを出すだけなので、保坂氏は小説を書くことに専念してほしいものだ。