成果給の広まりは経営者の見識の無さ

■会社員の賃金の年功色が薄れ、管理職層については年齢給部分がまったくない完全成果給の導入が広まりつつある。しかしそもそも会社員というのは、自営業や企業家ではなく被雇用者として働くことを選択した人たちで、報酬が毎年大きく変動するようなことを期待していなかったわけだ。
報酬がある程度の幅で一定しているということが会社員と呼ばれる人たちが働き続けるための、もっとも基本的な動機付けになっているのだから、成果主義の強化はとくに管理職を、いわばそれぞれの責任範囲で自営業者や企業家として扱うことに他ならない。ひとことで言うと、管理職の擬似経営者化である。
もともと自ら経営者になりたくないから、サラリーマンになっているのに、そういう人たちに擬似経営者になることを強要すれば、どういうことになるかは明らかだ。つまり管理職層から年齢給部分を完全になくすことは、管理職になるなというメッセージになる。
僕は個人的には逆ではないかと思うのだが。管理職はその責任の重さや、会社に対する個人的な犠牲の大きさと引き換えに、一般社員よりも厚遇になっている。管理職になっても一定の年齢給が保障されているからこそ、これまで一般社員は個人の時間を犠牲にしてでも管理職になろうとしたのだ。
しかし管理職の年齢給がゼロになるということは、「そこまでして管理職になりたくないよ」という一般社員を増大させることになる。すでに管理職になっている人は、報酬の多寡よりも、報酬が一定しているということに動機付けを見出してきたのに、それがなくなるとなれば確実に「手を抜く」ようになるだろう。
ところで日本の企業組織で中間管理職が果たす役割の大きさは、野中郁次郎の著作を読むまでもなく明らかである。ところが成果主義が広がるにつれて、これからの日本企業は、自発的に管理職になってやろうという人がどんどん少なくなり、間違いなく必要な人数の中間管理職を確保できなくなる。
すると、少数の経営層が、不釣合いなほど大人数の一般社員をトップダウンで指導するという寡頭体制に移行せざるをえなくなる。日本企業は、一般市民の比較的高い教育水準を前提に、中間層の厚い企業組織を作り上げてきて、それを支えるために年齢給を維持してきたのだが、管理職層の年齢給をゼロにすることは、全般的な教育水準の高さという、日本社会のもつ特性とまったく合わない寡頭体制的な企業組織を作り出すことになってしまうのだ。
成果給の広がりの結果うまれる寡頭体制的な組織は、中間層がもっている知識創造力を確実に埋もれさせてしまう。そうすれば日本企業がもっていた生産性の高さは確実に失われる。おそらく今の日本企業を経営している経営者たちは、そう簡単には変えられない日本社会そのものの特性まで、簡単に変わるもののように勘違いして、じゃんじゃん自分の会社内部の組織構造を変えてしまっている。
彼らはサラリーマン経営者である自分たちの認識の狭さ、つまり、個別の企業経営という観点だけでなく、日本人の中の依然として膨大な中間層の生産性をどうやって維持するかまでを考える広い観点を持てていないことに、まったく気づいていない。だから、サラリーマン経営者もふくめて、仕事のことしか知らない日本のサラリーマンはダメなのだ。