保坂和志と橋田脚本の違い

■保坂和志の『カンバセーションピース』を読んでいて、延々と続く登場人物たちのおしゃべりに『渡る世間は鬼ばかり』を思い出した。同じ会話を描きながら、この違いはいったい何なのだろうかと考え始めたら、案外すぐに答えが見つかった。
橋田脚本になぜ多くの日本人が感動するのかといえば、登場人物がつねに他人の言葉を代弁しているからなのではないか。自分では切り出しにくいことを、自分の心情をよく理解している第三者が代わりに伝えてくれる。本心を直接的に言葉にできない慎み深さと、その本心を傍から汲み取ってやる心優しさが橋田脚本の倫理観であり、その「代弁」がいつもタイミングよくなされるわけではなく、逆に多くの場合遅すぎたり、早すぎたりすることによってドラマが生まれる、それが橋田脚本に描かれているドラマを根本のところで規定している構造だ。
しかし根も葉もない言い方をすれば、本人と相手という二人ですむ話に、わざわざ代弁者としての第三者を加え、その第三者が最初の二人のどちらかに直接話せばすむことを、ふたたび四人目の「第三者」を加えて...という構造的な操作を繰り返していけば、コミュニケーションの失敗のバリエーションはいくらでも生成できる。
そこにドラマが生まれるのは、「成功したコミュニケーション」という理想的な状態を、橋田脚本がつねに言外に想定しているからだ。橋田脚本におけるコミュニケーションは、理想にたどりつこうとしながらもつねに失敗するコミュニケーションである。
一方、保坂和志の小説で延々と続く会話は、はじめから成功したコミュニケーションなどというものをまったく前提としていない。そのように成功も失敗もない会話に、そもそも「代弁」というものはありえない。「代弁」とは、本人がなしえなかったコミュニケーションの成功を、第三者が代わりに達成することなので、成功も失敗も問題にならない会話に「代弁」が成り立つ可能性はない。
もしかするとそこに実在するのは会話だけであり、話している主体というものは実在しないのかもしれない。少なくともその実在が保坂和志の会話の中に積極的に描かれることはない。『プレーンソング』の最後の部分で延々とつづく地の文のない会話が、そのことをよく極端な形で示していると考えられる。
そう考えてみると、職場で自分がいかに他人の言葉を「代弁」していることが多いかということを、あらためて気づかされた。僕が職場でつねに他人の言葉を「代弁」しているかのような印象を自分自身に対して抱かざるをえないのは、言うまでもなく職場での仕事について僕は自分自身で言いたいことなどほとんどないからだ。
それも当然である。そもそも職場での仕事そのものが、会社から命令されてやっていることなのだから、他人の望んだことに自分自身の考えを持つなどということは、定義上、不可能である。