武富士会長の盗聴関与と日本企業の「連帯責任」制

■武富士の武井元会長が遂に盗聴への関与を認め、引責辞任したという報道があったが、武井氏が送検された直後、経営陣が記者会見での質問に答えて、会長の無実を信じているという主旨の発言をしたという。テレビのあるコメンテータがこれを評して、まったく自浄作用のない組織であると話していた。
それと関連して、たとえば情報セキュリティのようなことに関して、自分の部下が機密情報を漏洩したとしたら、上司である自分は社内の各種規定によって処罰されるべきかそうでないか、ということを考えてみる価値がある。日本人的な価値観には、どうしても連帯責任という考え方が染み付いているので、当然、上司も責任の一端を担って、ある程度の処分を受けることはやむをえないだろうという結論になる。
じっさい先日の日本テレビの視聴率調査でも、武富士の事例とは異なり、会社ぐるみではなかったものの、経営陣にまで処分が及んだ。しかし社内で起こったあらゆる違法行為や、社内規定に抵触する行為について、つねにその上司や、さらにその上司、またそのさらに上司...といった具合に、経営陣までが連鎖的に処分を受けるというのが、本当に社内の不正行為を抑止するという考え方と一貫性があるかといえば、はなはだ疑問だ。
このような連帯責任は、つねに社内での倫理的な均質性を前提としている。部下が不正なことをしたのは、上司がその不正を見逃すに十分な程度に「不正」だったという理屈が背後に隠れている。
しかしこのような考え方は、社員一人ひとりの個人としての責任よりも、組織全体の責任を重視する。というよりも、社員一人ひとりの責任はほとんど無視して、あたかも経営陣の会社経営のしかたそのものに責任があるかのように主張することになる。
しかしこのように個人としての責任がいつのまにか組織としての責任に変換されてしまう瞬間にこそ、組織の中で起こりうるあらゆる不正の「発生」があるのではないだろうか。
そもそも武富士に社内の不正を許さないただしい考え方が存在すれば、社長が送検された後に、ただちに独自の社内調査を行って警察の捜査に協力するという行動を起こせたはずである。個人が組織の中で不正行為を行ったとき、その個人としての責任を、節操もなく上司や経営陣をふくめた連帯責任と混同しないようにする必要があるのではないだろうか。連帯責任を外から見て決して「美しい」などと思ってはいけないのだ。