昔のサラリーマンの愛社精神は単なる年功序列の産物

■サラリーマンとして生活しているなかで、昔にくらべると最近やけに「モチベーション」という言葉をよく耳にするようになった。おそらくサラリーマン全般のモチベーションが下がってきているからだろう。特にこのような外来語を抵抗なく使える若年層が、サラリーマンとしての仕事に動機づけを見出しづらくなっていることの何よりの証拠だと僕は考えている。
サラリーマンとしての将来を悲観させる材料には事欠かないのだから、当然といえば当然である。それを「モチベーション」としか表現できないのがサラリーマンの世界の欺瞞だ。
別に一人ひとりの動機づけが問題なのではない。無理やり一人ひとりの背中を押したところで、仕事の方へ若者を突き動かすことには結びつかない。問題は一人ひとりの仕事への動機づけではなく、将来を悲観せざるを得ないサラリーマン社会の構造の方なのだから。
一方で年金制度の見直しや年功型賃金の廃止で、人にまつわる固定費や債務を削減しながら、他方で「モチベーション」を問題化するというのは明らかに矛盾しているのだ。給与や年金など、人に金をかけられないのなら、動機づけの低下によって生産性が落ちることは当然の帰結として受け入れなければならない。
高度成長期のサラリーマンが高い「モチベーション」を維持できたのは、何も会社に対する忠誠心が高かったからではない。損得勘定ぬきで会社に貢献しようという「職業倫理」があったからではない。長く勤めればそれだけ給与が上がることが保証されていたからにすぎない。
金で時間を売るサラリーマンは、30年前も今も同じように打算的なのであり、30年前のサラリーマンが高い「職業倫理」を持っていたように見えるのは、単にその当時は未来が経済的にバラ色だったからだけのことだ。30年前の若手サラリーマンが今の若手サラリーマンとくらべて、立派だったわけでも何でもない。
いま企業を経営する立場に立っている30年前の若手サラリーマンは、そのことがわかっていないので、平気で「最近の若者は働く意欲をなくしてしまって嘆かわしい」などということを口にする。自分たちだって未来がバラ色でなかったとしたら、仕事などしなかったに違いないのに。