サラリーマンに「倫理」は不要、「順法」で十分

■企業の不祥事が問題化されるようになって以来、「企業倫理」ということがはやり言葉になっている。しかし僕は「倫理」のような重い言葉ではなく、「遵法」という現実的な言葉でじゅうぶんだと考える。
仮に企業が「倫理」を真面目に考え始めたらいったいどんなことが起こるか。自動車メーカの社員は、製品が一台売れるたびに大気汚染がひどくなることを「倫理的に」反省せざるを得なくなり、仕事を続けられなくなる。電機メーカの社員は、原子力発電所に部品を提供して、行き場のない放射性物資を増やすことを「倫理的に」正しいと主張できず、仕事をやめざるを得なくなる。
サラリーマンは自分を雇ってくれている会社の事業について、倫理的な判断を中止することではじめて仕事をつづけられるのだ。すべての社員がつねに「倫理的かどうか」を規準に行動するようにしむけたら、大多数が事業内容そのものに疑問を抱いて、仕事どころではなくなるだろう。
じっさいに「企業倫理」という言葉が指しているのは、とりあえず法律に違反しないようにしましょう、というだけのことで、別に「倫理的に」行動しろ、と言っているわけではない。「企業倫理」という言葉は明らかに大きすぎるのだ。単に「遵法」(コンプライアンス)といえば違法行為を防止するのにじゅうぶんであり、その努力に「倫理」という名をあたえるのはまちがいなく偽善である。
牛肉を偽装するのも、腐敗した牛乳で食中毒を起こすのも、リコールを隠すのも、既存の法律を守りさえすれば防止できる不祥事であって、わざわざ「倫理」を持ち出すことなどまったくない。こんな下らない不祥事の防止に「倫理」という言葉を持ち出すのは、「倫理」に対する冒涜だ。日本の実業界は「倫理」の重さを見くびっているのである。
もっとも日本のサラリーマンや元サラリーマンが「倫理」という言葉を軽く見るのも無理はない。上述のようにサラリーマンは「倫理的」判断を中止することで初めてサラリーマンとして存在できるからである。つまり「倫理的なサラリーマン」というのは、静的にとらえれば自己矛盾の表現なのだ(ただし動的にとらえれば、一人のサラリーマンが、昼間は何の疑問もなく仕事に没頭し、夜になると「倫理的な」問題についての苦悩を日記に書くなどして、二つの極の間をたえず往復することはありうる)。
こんなことを書こうと思ったのは、新幹線の運転手が勤務中に携帯電話で撮影した写真を女友達に送っていたという「不祥事」について、どこかの新聞が「職業倫理」という言葉を使っていたからだ。最近は高い「職業倫理」をもったサラリーマンがいなくなっているとか何とか書いてあったのだが、サラリーマンに職業「倫理」を教育することがそもそも可能だろうかと考えたからだ。
もちろん深く考えずに職業「倫理」を教育してしまうことはできる。しかしそんな研修に効果があるだろうか。効果がなければ企業の場合は、費用がかかるだけやらない方がいいということになる。サラリーマンについて僕らはどのように「倫理」という言葉を使うべきなのだろうか。