『現代詩手帖』保坂和志のサラリーマン批判

■『現代詩手帖特集版 高橋源一郎』は予想に違わず通勤電車のすぐれた暇つぶしになているのだが、高橋源一郎と保坂和志の対談に予想に反してサラリーマン批判が登場したのでうれしくなって、ここに引用しておく。高橋源一郎が「意味のない文学的修辞を小説は使うべきではない。
なぜなら、それは一見、文学の味方に見えて、実は敵だからです」と語る直前で、保坂和志が次のように言っている。「ノンフィクションは、フィクションよりもくさいフィクションの手法を使いますよね」。ここで僕がたちまち佐野眞一のうんざりするほど劇的な文体のことを思い出したのは言うまでもない。
「最近ぼくは、ひとりキャンペーンを張ろうと思っているんですけど、日本のビジネスマンって、文学のことを読まなくても平気みたいに思ってて、バカにするじゃない。でも、日常語は小説語とべつだけど、もっとさかのぼってみると日常語を作り出したのは文学なんですよ。ビジネスマンが考えている美意識とか因果関係の作り方とか論理構造っていうのは、さかのぼっていくと全部文学が与えてくれたもので、それがいまのくさいノンフィクションみたいなやり方してるとぜんぜん駄目なのね。一部の『小説性』のある小説があるから、さかのぼって昔の文学も保証される。それをビジネスマンは気がついていない。日本のビジネスマンがいちばん気がついてなくてさ、ほんとに知の最下層階級じゃないかと思うんだけど」。
よくぞ言ってくれました保坂和志。これはまさに僕が以前このページに書いたサラリーマンにおける物語批判だと僕は意を強くしたぞ。プレゼンやるにしても、管理会計の資料を説明するにしても、サラリーマンは何かといえば「ストーリーがない」「よし、そのストーリーで行こう」などとやたら物語にこだわるくせに文学を軽蔑している。それはサラリーマンが文学なんてたかが物語りだとたかをくくっており、司馬遼太郎や佐野眞一や高杉良を読むことで「やっぱりそうじゃないか」と思ってしまうからだ。