高橋和巳『わが解体』

■いま高橋和巳の『わが解体』をブックカバーもかけずに電車の中で読むという時代錯誤なことをやっているのだが、学園闘争の内幕を知ることができるという以外に、大学を運営する側と学生の間に立って両者の橋渡しをしたいと考えながら、そのような政治的対立の中で一人の人間が実現できることの卑小さに歯噛みする高橋氏の姿が身につまされる。
なぜ身につまされるかというと、事の重大さはまったく比較にならないのだが、僕も外国人と日本人の間に立って両者の橋渡しをしたいと考えながら、そうするにはそもそも寡黙すぎるし、話し言葉の表現力にもとぼしいという能力の限界に歯噛みする日々だからだ。日常生活の雑談のレベル、仕事をはなれた一市民としてなら外国人と日本人は問題なく付き合えるようなのだが、仕事となると考え方、進め方がまったく異なるので、気づかないうちに誤解が大きくなり、問題として顕在化するころには解決に丸一日かかるといったことも少なくない。
そうなる前に、ある程度欧米人の合理的な思考パターンを習得している日本人を議論の初めの段階に参加させ、日本人だけの間で議論がおかしくなりかけたら、欧米人関係者に報告し、両者の距離を縮めるということを繰り返すことはできるはず。異文化が混在している組織ではそのような橋渡し役、ブリッジパーソンを一つの職種として正式に設置すべきではないかと考える。
■今朝たまたまNHKラジオ第二放送のフランス語講座応用編を聴いていたのだが、セネガルの映画監督であり作家でもあるウスマン・センベーヌ(Ousmane Sembène)の小説が教材になっていた。フランス以外の国のフランス語作品がいままでNHKのフランス語講座で取り上げられたことがあるかどうか知らないが、フランス語講座といえばフランス本国の文化・社会・政治などを題材にするのが当たり前という感覚があったので、旧植民地の題材が新鮮に感じられた。
ということはいまや大学のフランス語教室でも旧植民地のフランス語作品が取り上げられていたりするのだろうか。いまだにフランス本国の白人の書いた作品しか取り上げられていないのではないかと想像する。大学に進学してフランス語を学ぼうという学生が期待するのは、旧植民地の文学ではないはずだし、旧植民地の文学をまともに研究しているフランス文学研究者はまだ少数派のはずだから。この想像が実態と違っていたら、ぜひ大学関係者のご連絡お待ちしています。