見当違いの「大企業病」批判

■米Amazon.comに注文していたジャック・デリダ『フッサール哲学における生成の問題』がようやく届いた。フランス語ではなく弱気になって英訳を注文してしまった。今から50年前、最初に本のかたちでまとめられたデリダの著作なので、後期の著作のようにまったくわけが分からないということはないだろうと期待しつつ、じっくり読むことにしたい。
■同じように決まり文句や世の中でよく言われていること、通説をそのまま信じこんで、意見を聞かれるとそれらの通説をオウム返しにすることしかできない人というのが、案外たくさんいる。たとえば業績の悪い大企業を見ると必ず「大企業病だ」と批判し、「その証拠に意思決定の速度が遅い、官僚主義的になっている、部門間の意思疎通が悪すぎる」といった紋切型をくりかえす人たちがいる。
たとえば第一点、意思決定の速度が遅いと言っている彼らは、どうやってその速度を測定しているのだろうか。意思決定の速度を絶対的に測定する方法などない。そうではなく単に相対的に遅いと言っているだけなら、大企業の意思決定が中小企業より遅いのは当たり前である。その理由は利害関係者の人数が多いからだ。とてもかんたんな議論である。
第二点、官僚主義的という批判は基本的に間違っている。以前このページでも取り上げた沼上幹が主張するように、企業組織は何よりもまず官僚組織として適正に機能していなければならないのだ。官僚組織とは一人ひとりの責任範囲が明確に定義されている組織であって、むしろ日本企業の問題はこの定義があいまいな点だ。つまり日本の大企業は官僚主義的すぎて問題なのではなく、官僚主義が不十分で問題なのである。
第三点、部門間の意思疎通が悪いという批判に対しては、何を夢みたようなことを言っているのかと答えたい。数千人が働いている企業で、部門間の意思疎通が良いと言えるためには、労働時間のうちどれだけの割合を意思疎通に割く必要があるだろうか。定時後に毎日「飲みニケーション」しても何の足しにもならないだろう。
社内の意思疎通が悪いと批判している人は、意思疎通の良い状態についてあまりに高い理想を描きすぎている場合がほとんどだろう。そういう人たちは、いちばん意思疎通がうまくいっている社内の人間関係を規準にして、それ以外の人との関係を見ている。
数人が集まっても性格の合う人、合わない人がいる。比較的うまく言っている意思疎通でさえ、社内の他の関係者との間にそれを再現するのは難しい。人間関係についてあまりに楽観的すぎる人が「社内の意思疎通が悪い」という実効性のない批判を展開する。
以上のように、大企業に対して大企業病を批判することに意味はない。言うだけ日本語の浪費だ。大企業を大企業病だと批判すれば、たいていの人はなんとなく納得してしまうし、いかにも経済に関して一家言ありそうに聞こえる。深く考えないまま批判をするのはやめたほうがよい。これは僕自身にも言い聞かせなければならないことだが。
■今日の日経新聞朝刊5面のコラム『けいざい心理学』は「仲間づくり~怪しい 日本人の和」という題名だが、このコラムそのものがはからずも日本人の和の健在性を証拠だてている。このコラム、実験経済学からは協調的でない日本人の国民性が導かれるとして、つぎのような実験を引用している。
日本人と米国人を対象にした実験で、たとえば自分が「五十」の利益を得ているときに他人が「七十」を得ているとすると、相手の足を引っ張る「いじわる」行動の傾向がより強く現れるのは日本人で、米国人は自己の利益を最大化することに集中するという。大阪大学のある教授は「互いにいじわるを経験し、最後には仕方なく協力するというのが日本人の行動パターン。最初から仲良く協力というイメージとは違う」と話しているようだ。
しかし上記の実験結果は、日本人が和を尊ぶという通説をくつがえすものではない。たんに日本人の和を尊ぶ範囲が、限られた小さな集団だというだけのことだ。大阪大学の教授の言う「互いにいじわるを経験」するのも、日本人が和を尊ぶあまり、その構成員に対して集団への同化を強くもとめるからにすぎない。
今も昔も日本人が和を尊ぶことができるのは、せいぜい小さな集団の中でしかない。その意味で日本人の和が、いまになって突然「怪しく」なったわけではないし、日本人が和を尊ぶという通説がまちがっていたわけでもない。
このコラムの前半、みずほ銀行の実例として、富士銀行出身の上司のもとで働く旧日本興業銀行出身の部下が、言葉づかいの違いで肩身のせまい思いをしているという例、それから、三井住友建設では旧三井建設の話題がタブーであるという例が引かれているが、これらもやはり、日本人が小さな集団内での和をひじょうに尊ぶことを証明している。
このコラムを書いた記者は最後に結論として、「合併後の融和にてこずるのは世界共通だろうが、ビジネスライクにまとまっていく手際では、欧米勢の方が『協調的』と見えなくもない。現場のココロがつながるまで、合従連衡は完成しない」と、一見逆説的な命題を提示している。
しかしこの結論は明らかに間違っている。日本人は協調的だからこそ、異なる企業や集団どうしが出会ったときに、たとえば「富士銀行的」協調性と「旧興銀的」協調性の差異が鋭く現れてしまうのだ。欧米の方が「強調的」だと書いてしまうこの記者は、日本的「和」の精神にかなり汚染されている。欧米人はとても打算的に、異なる組織どうしが相乗効果を生み出すための最短経路を考えているだけのことで、別に組織どうしの「和」を目指しているわけではない。
その証拠にこの記者は、「現場のココロがつながるまで、合従連衡は完成しない」というオカルト的な文章を書いている。「現場のココロがつながる」という表現は、ほとんど意味不明だ。「ココロがつながる」などという非科学的な言い回しを経済記事に平気でつかってしまうことが、まさにこの記者が「和」を尊ぶ日本人であることの何よりの証拠だ。この記者は「怪しい日本人の和」を書きながら、自分自身が「和」の概念から自由でないことを露呈している。それくらい日本人の和を尊ぶ精神は、依然として健在なのである。