僕の存在理由は「会社員」にはない

■う~ん、違うな。JR東日本の高架化工事トラブルは不適切な人員配置が原因ではなく、「プロフェッショナル意識」や「職業上の使命感」とでもいうものが会社員から失われつつあることが原因ではないか。ここで僕が職業上の使命感と言っているのは、自らの従事する職業について経済的な報酬や公の場での栄誉など、定量的で目に見える評価があろうがなかろうが、その職業における能力や技術の向上そのものに自分の存在理由を見出すという考え方のことだ。
ところが僕らよりも若い世代が、職業その他どんな手段であれ「自分の存在理由を見出す」という行為が一定の成果を生む、つまり最終的に何らかの存在理由を見出せると信じることなどできなくなっている。
特に会社員という職業は、職業一般のなかでも自分の存在理由を見出す手段としてはもっとも価値のないものになっているし、職業一般という手段もそうした目的のためにはもっともあてにならないものになってしまっている。だとすると個人で自由に使うことのできる時間を職業のためにより多く割くという発想自体が生まれようがない。
一方で「自分とは何か」という問いが人々にとってますます重要になってきている。会社員は原理的に交換可能でなければならない。仮に会社員の行う業務が特定の人物にしか実現できないとすると、企業は同じ仕事を引き継ぐ人材を育成するために無限の資源を必要とすることになってしまう。
交換可能な会社員という職業は「自分探し」の手段になり得ない。したがって「自分とは何か」という問いが重要になればそれだけ、会社員という職業に特別な使命感を持つ人間は確実に少なくなる。その結果これまでは当たり前だった身の回りのものの品質が当たり前でなくなりつつある。結果として世界が単純さに回帰していくかもしれない。僕自身も会社員としての仕事に自分の存在理由が見つかるなどとはまったく考えていない。