異文化コミュニケーションは英語以前の問題

■先日の社内研修で昼食時に別の部署のベテラン社員が通訳の女性をつかまえて「うちの会社に対してどんなイメージを持ってますか」「友達との会話にうちの会社の話題が出てくることはありますか」など質問攻めにしていたが、僕も転職して間もない頃まったく同じことを同僚から尋ねられ、その通訳の女性とまったく同じように答えに窮した。
「うちの会社」に特定のイメージなど持っている日本人はおそらくほとんど存在しないのだ。社員が思うほど世間の人々は良い意味でも悪い意味でも「うちの会社」に注目などしていない。「うちの会社」の社員は、世間から体よく無視されているという現実を受け入れることから始めるべきだろう。潜在顧客に対する片思いでは利益を産み出せないのだ。
■高橋和巳の『わが解体』を読んでいる。「内ゲバ」「民青」、15年前のキャンパスでさえそこだけ時代に取り残された立て看板の角ばった文字が脳裏に浮かぶ。現代小説という風には読めない。
■人事関係のデリケートな話題を正確にドイツ人上司に伝えたいので、日本語のできるドイツ人に通訳を依頼している日本人管理職、機関銃のようにしゃべる米国人上司との会議で、理解が危うそうになったときだけ通訳をお願いしたいとその米国人上司の秘書にかけあっている別の日本人管理職。
前者は自分の言いたいことを、自分で理解しやすい日本語に置き換えるという作業をサボって、そのドイツ人に押し付けようとしている。自分の言いたいことというのは究極的には本人にしか分かるわけがないのだから、それを理解しやすい形に置き換えるのは本人の責任である。
本当はわかりやすい日本語に置き換えるという「日本語力」が欠如しているのに、それを英語力の欠如と勘違いして、言い換えの責任を日本語のできるドイツ人に転嫁してしまっている。何でも英語力のせいにする態度は、異文化環境でもっとも無責任な態度だろう。
後者の管理職は、理解が危うそうかどうかは自分自身にしか分からず、赤の他人である秘書になど分かるはずがないということを理解できていない。これも問題は英語力の欠如ではなく、自分の理解できない点をはっきり「理解できない」と相手の米国人に発言できないコミュニケーション能力の欠如であり、英語・日本語以前の問題だ。他にもドイツ人を交えた会議が首尾よくいかないことについても、それが英語の問題だと思い込んでいる。
いずれの例も日本人管理職は英語力の欠如という躓きに拘泥するあまり、本当の問題を見失ってしまっている。これまで日本人の上司と部下どうし、部下が本当に自分の意図を正確に理解しているかどうかを確認もせず言いっぱなしで仕事をしてきたツケが、異文化環境ではじめて回ってきたのだと言える。「あ・うん」の呼吸が成り立っていると思っているのは、実は上司の方だけだったのだ。