高橋源一郎『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』

■片岡義男『日本語の外へ』といっしょに高橋源一郎大センセイの『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』(朝日文庫)という長いタイトルの書評を買っていたのだが、後からこの書評の中に『日本語の外へ』がとりあげられていることを知って驚いた。それにしても高橋源一郎大センセイの書評を読むと、ブンガクが読みたくなってくるから不思議だ。伊藤左千夫『野菊の墓』、織田作之助『夫婦善哉』、川上弘美『蛇を踏む』をたてつづけに読んでしまった。『夫婦善哉』には個人的になじみ深い新興宗教の名前が出てきたりして、時代こそ違うが、僕の生まれ育った大阪の下町を思い起こさせた。『野菊の墓』は映画化されてるくらいだから(映画は観たことがないが)クサくて読んでいられないような小説だろうと思っていたが、案外あっさりしていた(それでも最後のほうは登場人物が泣いてばかりいて単にしめっぽい物語だが)。川上弘美は夢で見るような世界、自他の境界があいまいで不条理なできごとがつぎつぎ起こるくせに、細かい道具立てはどこにでもありそうなものばかり、といった世界を、描写の対象と一定の距離感をたもったままの淡々とした文体で描いている。こういうのもありか、と思ったのは、たぶん僕が最近まったく現代文学を読んでいなかったからだろう。
■西欧人が仕事の日程計画をきっちり立てるようにうるさく言うのに対して、日本人はひどく働かされるのではないかと警戒するのだが、彼らが日程計画にこだわるのは、徹夜してでも仕事は期限までに終わらせろという日本人サラリーマン的な労働強化の発想からきているわけではなくて、本当にいまある人員でその期限に無理がないかどうかを合理的に検証し、もし無理であれば期限をうしろへずらすためなのだ。彼らは日本人管理職のように、どう考えても無理な期限を押し切ることはまずない。そうしなければ業務の品質が確保できないという、あたりまえのことをやっているだけなのだが、JR東日本の失態や、金融機関の大規模システムのトラブルなどを見るにつけ、単なる労働強化で厳しい期限を乗り切ろうという精神性はもう現実に通用しなくなっているのではないかと考える。昔のモーレツサラリーマンは、まるで新興宗教の信者のように会社に帰依し、私生活を犠牲にしてまで仕事に埋没していたかもしれないが、将来に夢も希望ももてない今のサラリーマンにそんなことを期待するのは無理というものだ。ところが経営トップやベテランたちの世代は、それを無意識のうちに当たり前こととして仕事をすすめるので、現場で作業をする若い世代と決定的な認識のズレを生じているのではないか。テレビで頭を下げている経営陣を見ても、どうせあの人たちは現場を責めることしか考えていないのだろうな、自分の責任なんてじつはちっとも考えていないのだろうなと、しらけた気分になる。