英語を使っての会議中に

■英語を使っての会議中に、日本人が言いたいことをなかなか英語で表現できずに、言葉につまったままになるという場面によく出くわす。そういうとき、その日本人が自分の英語力のなさをくやしく思っていることが手に取るようにわかる。職場で西欧人と日本人のコミュニケーション不全が問題にされる場合、多くの場合日本人の英語力の不足がその原因とされる。しかし、日本人が英語で西欧人に何かを伝えようとして言葉に詰まる場合、その90%は語学力不足の問題ではない。言いたいことそのものがあいまいなのだ。言いたいことがあいまいなままでも、日本語を使う限り「玉虫色の表現」を駆使して好きなだけごまかすことができる。そのせいで自分が明晰な思考をしていると勘違いしてしまうのだ。そのため、英語で自己表現しようとする日本人のほとんどが、「自分は思考は明晰だが英語力が足りないだけなんだ」という勘違いをしてしまう。そういう勘違いをしている人を判別する一つの方法は、日本語でしゃべらせたときに話が長いかどうかということだ。一つの事柄について日本語で簡潔に話せない人は、英語力以前の問題として、明晰な思考力に欠けている証拠だ。日本語で自分の考えを簡潔に表現できる人は、それを英語で置き換えるのに困難を感じることはない。英語での意思疎通を上達させたいという人は、英語を勉強するよりも、まず日本語で簡潔明瞭な自己表現をする訓練をすべきである。英語力の不足を言い訳にして、自分の思考のあいまいさをごまかすべきではないのだ。
■先日僕の背後で、年配社員二人が西欧人の言行についてグチをこぼしあっていたのだが、相当ひどいことを話していた。僕の職場の西欧人は、日本的な「あ・うんの呼吸」が無責任という悪い結果を産まないようにするために、意図的に「すべてを言葉で表現する」という戦術をとっている。すべてを言わなくても分かり合える日本人からすれば、そうした西欧人は細かいことまで説明しないと分かってもらえない難しい相手ということになる。年配社員の一人はそういう西欧人の一人を「察しの悪い人」と表現して、「すべてを言葉にして説明しろしろと言うけれど、単に察しが悪いだけじゃないか」と評した。ひどい評価である。すると相手の年配社員は「日本人なら『おい』というだけでお茶が出てくる」という、これまたひどい例示で激しく同意していた。「おい」だけで夫婦の会話が成り立つと思っているから、熟年離婚で累積した誤解の復讐をうけることになるのだ。教育的配慮から意図的にすべてを言葉で表現する努力をしている西欧人を「察しの悪い人間」と評する方こそ「察しが悪い」し、夫婦間のような対人関係を企業の中に平気で持ち込もうとする発想も理解に苦しむ。こういう年配社員に限って、自分たちがいかにその企業特有の暗黙の了解事項にどっぷりつかっているかを客観的に評価できない。コミュニケーション不全は、何も西欧人と日本人の間だけの問題ではない。僕のような中途採用者にとっては、自分が長年過ごしてきた企業文化を相対化できない年配社員も、西欧人と同じくらい「異なる」人々なのだ。こちらはそのコミュニケーション不全を意識的に克服しようとするのだが、あちらは僕が日本人なだけに、すべてを言わなくても分かるはずだと思い込んでいるので、かえって困難な状況だとも言える。この場合にもやはり問題は、西欧文化をどれだけ理解できるかではなく、自分自身の文化的背景(日本文化や企業文化)をどれだけ明瞭に説明できるかということなのだ。
■僕は心霊写真などオカルトのたぐいはまったく信じない。しかし会社で仕事をしていると、電子メールや会議の場でオカルト用語がしばしば登場する。そのたびに僕は、自分が一般企業ではなく宗教団体で働いているのかもしれないと考える。たとえば「魂」という言葉。職場というのは最終的に会社の利益に帰結するかどうかということにもとづいて機能しているはずだが、そのような環境で「魂」などというオカルト的な言葉を使う思考回路が、僕にはどうしても理解できないのだ。今まで特定の一人だけだと信じていたのだが、どうやらその人が所属する部署では一般的な業務用語として「魂」という言葉が使われているらしいことが、最近の電子メールで判明した。はっきり言ってショックだった。良い意味でも悪い意味でも非常に日本的な大企業として、西欧的な企業文化に対して強いアレルギー反応を示したくなるのはやむをえないとしても、それを「新しい制度を入れたとしても社員の魂に響かなければ」とか、「新しい規則を作っても、仏つくって魂を入れずになってはだめだからね」とか、「魂」という定義不可能な言葉を使うことで自分の態度をあいまいにするのは無責任きわまりない。説明責任を果たしたいのなら、同じことを「魂」という言葉を使わずに説明すべきだろう。「魂」という言葉を使っている当の本人が説明責任の重要性をいくら口にしてもまったく説得力がない。似たような表現で「理解できるが納得できない」という言い回しもよく使われる。この表現が使われる場合は二つに分類できる。一つは本当は理解できないのだが、それを認めたくないために言い訳として使われる。日本的無責任の典型のような表現である。もう一つの場合は理解した上で反対なのだが、反対の理由をはっきり述べられないために言い訳として使われる場合だ。なんとなく反感はあるが特に理論的な理由があるわけではない、ということなのだろう。「魂」にせよ、「理解」と「納得」の奇妙な使い分けにせよ、これらの言葉を使っている人たちがいかに論理的思考能力を欠いているかをよく示している。こういった不正確な言葉づかいや、オカルト的な言葉づかいをする人たちに、論理的思考について述べる資格がないことは明らかだ。彼らは「魂」などの言葉を使う自分たちの思考がいかに非論理的かを自覚する能力さえない。本当に論理的思考を身につけたいと思うのなら、まずオカルト的な言葉づかいをやめることから始めるのがよい。
■ということで、再び日本語のあいまいさが主題化されたので、新橋の書店で偶然目に留まった片岡義男『日本語の外へ』を文庫で読み始めた。片岡義男を単なる流行作家だと言って侮ってはいけない。以前このページでも触れたように高橋源一郎センセイの評価は意外に高いのだ。