会員専用領域の閲覧申込みだが

■会員専用領域の閲覧申込みだが、現時点で224通のメールを頂いている。いろいろな方が添えてくださった激励(?)のメッセージに重ねて御礼申し上げたい。この「愛と苦悩の日記」を会員専用にする作業は今週末にでもやろうかと思っている。希望される方はこちらのフォームからあなたの電子メールアドレスだけを通知して頂きたい。
■会員専用領域にして何が変わるのかという素朴な疑問に対しては、書く方も読む方もごくわずかではあるが参画意識の強さが変わるのではないかと考える。少なくとも筆者としては不特定多数向けに書くのとは大きな違いがある。テレビ局のスタジオでタレントが、テレビカメラの向こう側にどれだけの視聴者がいるのか意識できないように、不特定多数に書くときは自分が誰に向かって書いているのか意識することが困難だ。他方、会員に向けて書けば、200余人がそれぞれ端末の前に座っている様子を意識しながら書くことができる。実際に顔が見えるわけではないが、200人収容のこじんまりしたスタジオで公開録画をすることに例えられるだろう。読者としてはわざわざ申込みという行為を経ており、しかも読むたびにログインする必要があるから、自らの選択でこのページを読んでいるのだという事実を意識せざるを得ないだろう。たかがこの程度のこと、コミットメントと言うのもおもはゆい些細なことだが、インターネット上で実現されるコミットメントの強度はそもそもこの程度かもしれない。
■と、さりげなく前置きをした上で、この週末は『論理パラドックス』の他にもう一冊、ヒューバート・L. ドレイファス『インターネットについて――哲学的考察』(産業図書)を読んだ。著者は米国にハイデッガー哲学を紹介した研究者として有名で、コンピュータに関する論考としては『コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判』という著書もある。『インターネットについて』は、インターネットをプラトン以来、デカルトを経て現在まで根強い、身体に対して魂を優位に置く思想の延長線上にあると見なし、真正な経験は現実の環境に置かれた身体を通じてしか獲得できないと書いている。インターネットには何ができないかを、主にメルロー=ポンティ、キルケゴールを援用しつつ書いている。ただ、1日で読破してしまったことからもお分かりのように、議論の背景にある動機付けは極めて単純だ。要は、インターネット上での仮想的な経験は真の経験にはなり得ないということを言っているだけで、それを論じるのに果たしてキルケゴールまで持ち出す必要があったかどうか。ところで本書は哲学的考察である以上、インターネットはその本質からして人間に本物の経験を許さないという「権利上の問題」を論じている。これに対して僕らは、ドレイファスなら錯覚や錯誤とでも呼ぶだろう判断によって、インターネット上での経験があたかも本物の経験であるかのように受容されてしまう状態を考えることができるだろう。いや、実際にそういった錯覚や錯誤が世界中のいたるところで起こり、インターネット上での恋愛を真の恋愛だと「誤解」している人が少なくないとすれば、「事実上の問題」としてインターネットは必ずしもドレイファスが論じるような限界を持たないとも言える。仮想的な対象の内に実在を「誤って」認識してしまうのは、いわば偶像の中に神の実在を信じてしまう偶像崇拝や物神化である。インターネットは十分物神化の対象たりえる魅力的な対象だ。だとすれば、ドレイファスがインターネット上での経験の対極として、キルケゴールの言う宗教的な体験を援用するのも無理はない。一神教の世界、誤認の許されない世界においては、なるほど身体の実在に体験の現実性の根拠を求める選択肢しかないだろう。しかし誤認や錯誤が現実に起こってしまう現実の世界においては、仮想的な存在に体験の現実性の根拠を求めることが起こっているのだ。ドレイファスが理想的な状態として記述するのは、すべてのインターネットの利用者が、インターネット上での体験をニセモノだと割り切るだけの良識を持ち合わせている状態だろうが、このような状態そのものが実際には起こり得ない虚構であり、錯誤や誤認に満ちた状態こそが現実なのである。