日本的サラリーマンの心性で何がいちばん不愉快と言って先輩風を吹かすことくらい不愉…

■日本的サラリーマンの心性で何がいちばん不愉快と言って先輩風を吹かすことくらい不愉快なことはない。単に年上であったり、特定の会社での勤務年数が長いというだけで、他人に物を教えるような口の聞き方をしたり、自分の方が多くの物事を知っていると主張する権利もない。むしろ人は年をとればとるほど、自分がいかに無知であるかを自覚すべきである。
■この週末は近頃では珍しく濃密な週末だった。一つはNHKブックス『自由を考える~9・11以降の現代思想』東浩紀大澤真幸著を読んだこと。もう一つはマイケル・ムーア製作・脚本・監督の『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観た(恵比寿ガーデンシネマ2)ということ。後者はご存知のように銃社会の米国を批判的に取り扱った長編ドキュメンタリーで、随所にシニカルな笑いをちりばめつつも基本的には非常に真面目な映画だ。米国と同等の銃保有率、人種の多様性、暴力的な映画やゲームの氾濫といった環境にありながら、なぜカナダでは銃犯罪による犠牲者が極端に少ないのかという比較から、監督は米国のマスメディアが日常的に大衆の恐怖心を増幅させ、銃の保有や「自衛のための戦争」を正当化する世論を形成している事実を浮かび上がらせる。監督はここから、武器製造業者を中心とした資本家やNRA(全米ライフル協会)のような新保守層を「主犯」として特定し、映画の最後はNRA会長チャールストン・ヘストンとの単独インタビューが虚しく終わる場面で締めくくられている。しかし僕としては、そう簡単に主犯を特定してしまって良いものかという疑問が残った。確かに武器製造業者やNRAなどの圧力団体にとって、銃社会が一つの利権であるということは事実だろう。しかしそれ以外の大多数の米国人は、銃社会によってなんら利益を得ていないように思える。にもかかわらず銃社会を維持するための過剰な恐怖心を米国人が内面化してしまっているのはなぜなのだろうか。それこそカナダのように暴力的な映画やゲームの氾濫の中にあっても、過剰な恐怖心の内面化を拒否できている国もあるというのに。もちろん銃をなくすための実践的な努力は一方で必要であり、この映画の中で監督はKマートに銃火器の販売をやめさせるという具体的な実績を上げている。しかし片端から銃を刈り取っていく他方で、銃が増殖していくイタチごっこは永久に終わりそうにない。昨日のエッセー「ドテラの王様」でも書いたが、いちばん始末が悪いのは、悪意なく不適切な行動をとる実践主義者なのだ。自分にとって得か損かにかかわらず、自分の行動が端的に正しいと考えて(正確に言えばこれは「考えて」いるうちに入らないのだが)どしどし行動してしまう人々が最も扱い難いのだ。仮にNRA会長が利害度外視で米国的価値観を称揚しているなら、彼が変心しても彼の代わりは無数に存在する。Kマートは銃火器を売り続けることが損だと分かったからやめただけで、米国に蔓延する過剰な恐怖心が減じたわけではない。この映画は議論を極限まで進めることで論のほころびを露呈させ、米国の銃社会がそれほどまでに解決困難な問題であることをはっきりと見せてくれているという点で、非常に優れたドキュメンタリーだ。