山本七平『空気の研究』と日本企業の国際化

■なぜか今ごろ(というようなことを言い出すと本を読むのに適当な時期があるのかという話になってしまうが)山本七平『空気の研究』(山本七平ライブラリー・文芸春秋社)を読み始めた。意思決定を「空気」や雰囲気のせいにしてしまう日本人の無責任さは、物神化を手段とする価値の絶対化にあるという明快な分析を読んで、真っ先に僕の頭に浮かんだのは日本企業の現場絶対主義である。「そんなきれいごとでは現場が動かない」「現場の声を知らないからそんなことが言えるのだ」などなど。
僕は会議でこれらの意見を聞くたびに、現場とは誰のことなのだと反論したくなるが、会議の「空気」がそうさせない。日本企業は「現場」を物神化し、絶対化してしまったのではないか。変革を言い出せないのは「現場」のせいだというが、「現場」は特定の人物のことではない。
福沢諭吉の啓蒙主義は日本における物神化・絶対化の問題(「神社のお札をふむと罰が当たる」など)そのものを批判によって解決しようとせず、単に否定しただけに終わったので、教育勅語や天皇の肖像など新たな物神化をもたらし、「空気」の支配を強化する結果になったという指摘は興味深い。結局、現代にいたるまで日本に相対化の思想は根付いていない。最近は「グローバリゼーション」が新たな「空気」になっているのではないか。
ただし僕個人は日本人が相対主義や批判をわがものとし、日本から「空気」を一掃できると考えるほど楽観的ではない。したがって「空気」を意図的に利用することも場合によっては必要だと考える。
というのは、日本企業の組織改革がときに個々の企業内の組織改革ではなく、まるで日本人そのものの改造を目指しているかのように見えることがあるからだ。より合理的で透明な経営判断が、より迅速に行われるように組織を改革すること自体は結構な話なのだが、その組織改革の議論が日本人論のような大げさなものになるのは馬鹿げている。
一私企業の組織改革に日本社会全体の改革が必要だなどと言い出した途端、組織改革は永久に到達できない目標になってしまう。むしろ既存の組織や経営体制を根本的に批判することはあきらめて(そんなこと十年やそこらで出来っこないのだから)、「グローバリゼーション」を物神化することでそれらをただただ否定するしかないのではないか。
日本人会社員がみな山本七平のようにユダヤ文化に造詣が深く、「空気」を相対化できるのであれば、「グローバリゼーション」の物神化はただ害悪をもたらすだけだが、所詮日本人は時代ごとに何かを強制的な「空気」として物神化・絶対化することでしか生きていけないのではないかと僕は考える。これは日常的に日本企業で西洋人と業務改善の仕事をしていることから帰納的に導き出される結論である。
西洋人は根本的で合理的な批判によって、日本人の「現場」や「実情」という言い訳を捨てさせることができると信じているのだが、それは「空気」といった物神化の文化を持たないが故の楽観主義だと考えざるを得ないのだ。