開戦ということでオフィスの窓際におかれているテレビデオが一日中つけっぱなしになっ…

■開戦ということでオフィスの窓際におかれているテレビデオが一日中つけっぱなしになっていた。戦争報道を聴きながらも、仕事そっちのけで定時後の宴会の段取りを平然とやっているのだから、不謹慎にも程がある(笑)。窓一枚隔てた外界とこれほどまでの「温度差」を苦もなく作り出してしまうのが、サラリーマン社会というものなのだ。この地点から法律を平然と破るに到るまでは、一歩で充分であることは言うまでもない。
■と言いつつ僕自身も不謹慎ながら図書館で借りた後藤明生の小説論『小説―いかに読み、いかに書くか』(講談社新書)を一日で読み通した。それくらい読みごたえがあったということだ。春の蔵書整理期間が明けた市立図書館をぶらついていると、地元にゆかりのある作家のコーナに後藤明生の著書がズラリならんでいた。そんなコーナがあることに今日はじめて気づいたのだ。そういえば後藤明生はその図書館を取り囲む大団地の住民だった。『挟み撃ち』しか読んだことがないのにいきなり小説論は性急すぎるかもしれないが、結果として宇野浩二や椎名鱗三も読まなきゃ、という動機づけになったのでよかったことにしよう。
■国立国会図書館が近代デジタルライブラリーなるWebサイトで、明治時代の刊行図書をスキャンした画像を公開している。著作権の不明な図書に関する情報提供をインターネットを通じて呼びかけているというニュースが、新聞だったかに載っていたことから、このサイトの存在を知った。さっそく見つけた廣津柳浪のごく初期の短編を別項にテキストデータ化して載せてみたが、これがなかなか面白い。スキャンされている画像が初版本らしく、作品によっては装丁や挿し絵が楽しめる。できればカラーでスキャンしておいて欲しかったものだが。ものによっては変体仮名が使われているが、ネット上の解説サイトを参考に何とか読み進められる。何となく読み始めた山田美妙の『ぬれころも』なんて、いきなり幼女が野良犬に噛みつかれたか「足の指から血がだらだら」という例によっての残虐趣味なのだから、思わず笑ってしまう。皆さんも全集にも文庫にもなっていない、埋れた「迷作」を発掘してみてはどうだろうか。
■先週、神保町で収穫したうちの一冊、正岡子規の小説『月の都』(岩波文庫)を読んだ。まだ学生時代の作品で、原稿を持って幸田露伴を訪れたが、露伴は褒める場所がなくて、やむなく作中の俳句を褒めたとか。物語としては、かなわぬ恋に絶望した男女が、それぞれに自死するというものだが、僕にはちょっと装飾過多でよくわからなかった。そもそも上の巻が「第一爻(こう)」から始まるのだ。「爻」というのは漢和辞典によると易の卦を組み立てているもので、陰爻と陽爻とがあるという。で、この「第一爻」の副題が「用※馬壮吉(※=手偏に極のつくり)」でどういう意味なのかさっぱり分からない。書き出しはこんな感じだ。「三十一文字の徳は神明に通じ十七文字の感応は鬼神を驚かすといふめるを、花に寄せ鳥に寄せては詠み出づる歌に恋の誠をあらはし、月に比へ雪に比へては口すさむ句に世になき美人の面影を偲ぶことここに何年、斯くても猶出雲の御神玉津島明神をはじめ八百萬の神々は知らず顔にうしろむき給ふは如何にぞや。末世に及びて神霊も衰へたるか我が信心の足らぬか美人一人今の世になき事かと計りあけくれ歎くすき心、浮世もよしや足引の山の手辺に住居して今業平と正札つきの桂男、目には見ゆれど手には取られずと歎つ近所の評判、まだ十三の歳より道徳堅固の高僧を三度振り返らせて罪を造り初めけるとなん其名を高木直人と云ふ」。一人の女性への恋心を短歌や俳句に虚しく読む続ける美男である主人公を紹介するのに、これだけの修辞を駆使するのだから、二葉亭四迷の小説からいかに遠く隔たっていることか。2003年春の岩波文庫リクエスト復刊なので、ご興味のある方は早めにご購入を。