電車の中の精神病患者

■優先座席にすわって携帯電話でメールを打つのに没頭している、どこにでもいそうな二十代の女性が、いきなり喉の裂けそうな声で『ひょっこりひょうたん島』を歌い出したら誰でも驚くだろう。今日、電車で見かけた精神病患者はそういう人だった。
目の前にいない嫁をなじるような独り言をつぶやく老婆というのも同じ路線で見かけたことがあるが、車内の騒音にかき消されてしまう声はそれほど気にならなかった。ところが今日見かけた若い女性は、まさに悲鳴としか言いようのない声で『ひょっこりひょうたん島』を歌う、というより「叫び」、それでいて平然と携帯電話でメールを打ちつづけるのだから逆に車内を静まりかえらせた。
そして「どうせ私はお客さん相手のバイトには向いてないわよ。どうせダメなことはわかってるのよ!」と自虐的な独り言を叫びつづけた。その言葉は概して自虐的で、「嫌い、嫌い、みんな大嫌い!」という、台詞のように調子のととのった叫びを含んでいた。
僕は即座に『新世紀エヴァンゲリオン』のコピーではないかと疑ったのだが、声優にあこがれるアニメファンの少女が、社会に適応できない自分を否定するあまり心を病んだのではないかという仮説が簡単に成立してしまった。その独り言は決して支離滅裂ではなく、演劇の練習をしているような、台本に書かれたような独り言なのだ。彼女が生きている世界は下界からかなりの程度、閉ざされていて、彼女自身が紡ぎ出す言葉が叫ばざるを得ないほどに横溢しているのだろう。
しかし僕自身も会社員の生活圏で強い違和感を持ちながら生活しなければならず、現実との乖離は他人事ではない。僕はニヒリズムに近い相対主義を自認せざるを得ず、特定の趣味に没頭することで仕事の憂さを晴らせることや、長年携わってきた専門分野へのこだわりなどとは無縁である。
エンジニアリングとは何の関係もない仕事を無理にエンジニアリング用語に押し込んでしまう偏狭な「プロフェッショナル意識」を前にして、しらけることしかできないのだ。そんなとき僕の頭の中ではグールドの演奏する超高速のモーツァルトがエンドレスでかかっていたりする。会議の相づちが自分でも台詞のようによそよそしい。すべてがやらせで、真剣に演じていることがとてもおかしくなってくることもある。