問題は正しく問われたときすでにその答えは見つかっている

■問題は正しく問われたときすでにその答えは見つかっている、という言葉をどこかで読んだことがある。僕はこの言葉は正しいと考える。正しく問われた問題はすでに解決方法を示唆しており、後は実行することしか残されていない。したがって問題解決においてもっとも難しいのは、それを問題として認識する過程ということになる。問題として認識されれば、その問題を正しく問うことはまともな国語力があればさほど困難ではない。ただし問題を問題として認識するという最も困難な過程をとても簡単にする方法がある。問題を問題として認識するには背景からその問題を浮かび上がらせればいいわけだが、認識の背景は多くの場合意識化されていないため、問題とその背景を区別することができない。それを区別するために異なる背景をもつ人たちの意見を一度そのまま受け入れてみることだ。しかしここにもその意見を異なる意見として認識できるかどうかという不確実性がある。このように考えてくると自分が問題として認識していることが果たして本当に問題なのか疑わしくさえなってくる。自分は問題を正しく認識していると無条件に信じられることが辛うじて問題を問題として成立させているのではないかと考えたくなるほどである。
■最近AppleはMacintoshはWindowsに比べてわけのわからないトラブルが少なく初心者向きであるというテレビCM(リアルピープル・シリーズ)を流しているが、パソコンがかんたんか難しいかは絶対的な尺度で評価できるものではなく、利用者の情報リテラシーという相対的な尺度でしか評価できない。情報リテラシーの高い利用者にとって「難しいパソコン」というのはそもそも存在しないのと同様に、情報リテラシーが低い利用者にとって「かんたんなパソコン」も存在しない。AppleのCMが主張するようにMacintoshユーザの平均的なリテラシー水準の期待値がWindowsユーザよりも低いということが真実なら、このCMはMacintoshはそうした利用者の期待を裏切ることしかできない。グラフィックスにもDTPにもDTMにも興味のないパソコン初心者が、果たしてMacintoshを選択する理由とは何だろうかと改めて考えさせられるCMである。