そのとき彼が言い出したこと

■そのとき彼が言い出したことは、僕がその一週間以上も前、まさに彼を目の前にして言いたかったことそのものだったにもかかわらず、今、彼はそのときの僕の言葉をまるで自分の意見でもあるかのように話し始めたのだった。いや、厳密に言えば彼は自分の言葉として話したのではなく、そのことを知っているのは他ならぬ僕であることを示唆しながら、僕にそのことを話させるようにうながしたのだった。結果として僕は一週間以上も前に強弁したまさにそのことを今回は穏やかな調子でくりかえし述べる結果となったのだが、それはとうてい僕自身が納得のいく仕方で僕の主張を述べることができたのではなかった。彼は彼らしい仕方で僕をうまくフォローしたということを印象づけることができたわけだった。
■僕と向き合って立っていたもう1人の人物との間を、僕らのしぐさをおどけるように真似ながら4人の人物がわざと歩みを遅くして横切っていく、その姿が、まるで映画のフィルムをコマ送りにするように僕の目に映った。歩みを遅くするということそのものはまさに僕らのしぐさを軽蔑しきっているということを意味しており、それを軽蔑しているという事実によって彼ら自身が軽蔑すべき存在であることを露呈していることに気づかない、それほど重大な事実にさえ気づけないほど愚かな人物に愚弄されているということに怒りを抱きながらも、その怒りを表現することよりも抑制することに誇りを抱くべきだと自分を納得させるために、ほんの数秒間ではあるが自分の動作を停止させなければならなかったことの愚かしさを、その数十分後にぼんやりと座りながら思い出さなければならなかったことを、どのように考えればいいというのだろうか。
■何かを言いたいと思いながらも、その言いたいという事実についてまず何ごとかを考えなければならないのだとしたら、何かを言いたいという行為はもう言いたいという欲求ではなく、本当に言いたいのかどうかを自分で確認するための単なる手段になってしまうのではないかということを同時に考えてしまうと、その言いたいという事実について一体何を考えたかったのかが、すでにあいまいになってしまっていることに気づき、ならば初めから考えなければ良かったのだと後悔しても、すでに考えることをやめてしまった後ではもう遅いのだと言える。何かを言いたいということは何かを言いたいということを自分で考える前にすでにその何かを言ってしまっていることを後からふりかえって、辛うじて言明できることなのかもしれない。
■いったい何のためということをよく考えるクセがあるというのは、何のためということに多大な関心があるということをかならずしも示しているわけではないのではないかと疑い始めた時点で、いったい何のためということを考えるのはいったい何のためなんだろうかと考えてしまっていることに気づいた。電車の中で何もすることがない時間をつぶすためにいろいろなことを考えるのはよいことだが、考えようとしても隣で競馬新聞を読んでいる薄汚い身なりのオヤジが、電車の混雑にもかかわらず両腕をいっぱいに広げているその新聞が自分の脇腹に当たっているという程度の下らないことで思考が停止されてしまうくらいなのだから、そもそも考えようという動機そのものがきわめて薄弱なのに違いないのだから、何かを考えようということそのものを考える必要があるのかどうかを考えてしまうハメになるのだ。
■この調子で延々と日記を書き続ければ、いくらでも書き続けることができるのだが、読者をうんざりさせるだけだろうからこのあたりで止めておく。しかし僕は本当にこの調子で日記を書き続けることができそうなのだ。今日一日、あそこを歩いていたときに自分が一体何を考えていたのかを、一秒ごとに思い出せるような気がするのは今日に限ったことではなく、しかも今日一日のことだけではなく、印象に強く残っていさえすれば数日前、数週間前の特定の瞬間であっても、そのとき自分の内部でどのような思考が流れ去っていったかを小説の内的独白のように書き下そうと思えば書き下せる。僕はこれが一体自分に特殊な能力なのか、普通の人たちもわけなくできることだがそんなことをしたって非生産的なのではじめからするつもりもないだけなのか、そもそも「特殊な能力」と自慢気に表現するに値することなのかもよくわからない。本当のことを言えば、こんな些細なことはさっさと記憶から消えてしまって欲しいとも考えているのだが、今こうして記憶の糸をたぐればたぐりよせられてしまうこと自体が、僕に何かを告げようとしているのかもしれない。つねにメッセージの内容よりも、そのメッセージが伝えられているという事実そのものに含まれるメタメッセージの方に気を取られてしまうのは、よくないクセである。