日経新聞掲載の京大名誉教授の悪文

■昨日アップした「京大名誉教授の悪文」について、あれは日経新聞の記者が代筆しているから、同氏の責任は加筆修正における怠慢のみだ、とのご指摘をメールで頂いた。
しかし僕は毎回「私の履歴書」を読んでいるが、あれが記者の代筆という説は信じがたい。その証拠といっては何だが、映画『森の学校』のパンフレットから、同氏の文章を引用してみる。題名は例のひとりよがりな紋切り型、「こどもは群れる」である。
「夏の川原には人影がみえず、がらんとして淋しい。秋のたんぼの土手には柿がたわわに実ったまま、誰も手をつけないまま熟し落ちるにまかされたままだ。川で群れ、水遊びに興じていたこどもたち、柿の木に登り、秋の陽光にほっぺを輝かせて山猿のように柿をほおばっていたこどもたちは、どこへ行ってしまったのだろう。/こどもの自然ばなれがはげしい。蝉とりや魚とりに夢中になり、野を駆け、木に登り群れて遊びほうける『こどもの自然』をとり戻したい。こどもの生き生きとした命を育み、命の大切さをしみこませる自然の中での楽しい遊びの世界を、この映画を通して知っていただけるとうれしい。」
どうだろうか。「がらん」と「淋しい」というのは「馬から落ちて落馬した」に等しい。2つめの文にはなんと3回も「まま」が登場して、大人の書く日本語とは思われない。「ほっぺ」という唐突な口語も「私の履歴書」の文章に共通する特徴だ。
「こどもの自然ばなれがはげしい」ではなく、「こどもの自然ばなれが顕著だ/深刻だ/進んでいる」が正しい。日本語の慣用語法を頭から無視しているのも「私の履歴書」と同じである。「命の大切さをしみこませる」というのも日本語として、言葉のつらなりがややおかしい。
このパンフレットの文章さえも誰かに代筆させているのだとすれば、同氏は文章を書くという行為を冒涜していると言わざるを得ない。僕は飽くまで「私の履歴書」は同氏が自ら筆を執ったものであり、拙文の恥をあえてさらしているのだと信じたい。