この週末、都心のカメラ屋で一眼レフ銀塩カメラを物色していた

■この週末、都心のカメラ屋で一眼レフ銀塩カメラを物色していたが、展示品の絞りやシャッター速度を変更してみたり、シャッターを押してみたりしながら、僕にとっての一眼レフの魅力の大部分は精密機械としてのカメラが人間の視覚を分節しているところから来ているのだと気づいた。カメラはわざわざ合焦させ(この部分はオートフォーカスでほぼ間に合うが)、適切な露出設定をしなければ「見る」ことさえできないのだが、その不自由さは人間が一瞬にして行なっている「見る」という行為の過程を個々の段階に分解してみせていると言える。人間の視覚をある種不器用な仕方で機械化したカメラが、ズームリングをグリグリと回す感触や、絞りやシャッター速度を調整するダイヤルをカチカチ回す手ごたえ、シャッターの押し心地、合焦するときのピピッという電子音、ファインダーに表示される露出計、シャッターが下りるパシャッという音など、触覚、視覚、聴覚に訴えながら人間の視覚の過程を迂遠な仕方で再現していく様子を自分の身体の一部として体験できる点にカメラの魅力があるのではないかと感じた。カメラは視覚の過程を微分し、肉眼が一瞬にして行なう行為の個々の断片を人間にとって制御可能なものとして差し出す。あたかも自分の肉眼を自由自在に制御しているかのような錯覚を、片目のカメラによって味わえる。結果として撮影された写真作品とは独立して、カメラで見るということそのものにこのような独自の魅力が存在するのだなぁと痛感した。しかしこの快楽を味わうだけのために5万円近くもする機械を購入するかと考えると、逡巡されて結局何も買わずに帰宅した。僕にはもう一つ、今何を撮るか、そして将来にわたって何を撮りつづけるかという動機が必要なようだ。