翻訳なしに米国合理主義を持ち込む怠慢

■『アメリカの影』という題名にひかれたのには単に東浩紀が『郵便的不安たち』の中で加藤典洋と高橋哲哉の論争に言及していて、たまたま文庫本コーナーで見かけたからというだけではない理由がある。僕が勤務している会社で社内的に評価の高い30代の若手社員がどうして例外なくアングロサクソン的経営論を無批判に称揚してしまうのか、単なる疑問をこえて日々いらだちさえ感じているためだ。
とにかくその感染され具合は無邪気と言えるレベルである。英語ができないのに何とかマネージメントのカタカナ用語を振りかざし、それでベテラン社員に対して反論できているつもりでいる。アングロサクソンの経営論を超保守的な日本企業の職場で実践に応用するのは結構だが、最低限の努力として日本の文脈に翻訳しなおすくらいのことはすべきだ。翻訳なしに米国の合理主義的な経営論を保守的な日本企業に持ち込むのは怠慢である。
同じことは情報技術関係の各種イベント、展示会で日系のシステム構築会社の講演を聴いていても感じる。例によって自社の商品やサービスの前に「インターネット社会の到来」だの「ニューエコノミー」だのいろいろと能書きを垂れるわけだが、その能書きは米国の情報技術系サイトで読んだような内容の受け売り。日本の文脈に翻訳しなおす作業がここでもサボられている。どちらの例も自分の思考停止を露呈してしまっていることに羞恥心のかけらもないのだ。彼らはおそらく彼ら自身が称揚する合理主義によって自らが「リストラ」にでも遭わない限り、自分の無邪気さを改めて考え直すことはないだろう。