坪内逍遥『妹と背かゞみ』

■ひきつづき明治文学全集で坪内逍遥の『妹と背かゞみ』を読んだ。文庫本にして200ページ弱の作品だが、やはり小説というより人情本に近い。ちなみに題名は「妹」と「背かがみ」という意味ではない。「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出す意味。つまり夫婦の生活を描写するという意味の題名だ。
題名のとおりこの小説は「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都合で結婚させられた夫婦のいずれもが不幸な結婚生活を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再現しようとしている。その意気込みの証拠に第一から第十八まですべての回に「写しいだす~」という副題がついている。
第一回は「写しいだす三田台の仮寓居」、第二回は「写しいだす人の身の栄枯盛衰」、第三回は「写しいだす新年の骨牌(かるた)あそび」などなど。『当世書生気質』と異なるのは人物の心理がより丹念に描かれている点。描かれる人物の苦悩は漱石に出てくるような利己主義どうしの葛藤ではなく、私情と世間の対立、義理と人情の対立だ。
たとえば第十一回、親の意思で田沼という男と結婚させられようとしているお雪の心理を逍遥は「お雪の本心ハ果たしていかに。今一魔鏡を取いだして。お雪の肺肝を写しいださん。(お雪肚の裏に思ふやう)」と書き起こしている。「いつそ思ひきつてお母さまへ。妾の肚の中をお知らせ申して。此縁談を断らうか。イヤイヤ田沼さんを断れバとて。別に是ぞといふ目的もなし。生中田沼さんと破談になつたら。いつかの縁談がまた・・・・・・」と、この「・・・・・・」という句点法はたしか『当世書生気質』にはなかったもの。言葉に尽くせない内面を示しているのか。
ちなみに中村眞一郎はこの作品を次のように評価している。「現代の小説の通念からすれば、あまりにも説明なり、議論なりが多いということになり、小説としては純粋でないということになるかも知れない。しかし、私はこうしたロマンチックな作風(作者の介入という意味であって、伝奇趣味ということではない)も、小説の展開のために、大いに意味があると思う。叙述、分析、描写、説明を自在に用いて、物語を進めるこのやり方は、小説というものを、とらわれた写実主義から解放してくれるだろう。そして、方法意識の強い前衛的な作家ならば、たとえば女主人公の心の描写に、二十世紀小説の『意識の流れ』の方法の先蹤さえ発見するだろう」。
たしかに逍遥の話法はときに「そりゃやりすぎだろう」とつっこみを入れたくなるほどバラエティーに富んでいる。作者自身がしゃしゃり出てきたり、延々と独白が続いたり、新聞記事の引用があったり、余計な注釈が入ったり。雑然とした逍遥の小説世界が、逆に現代に小説の多様な可能性を想起させる役割を果たしているのではないか、という中村眞一郎の問題提起にはなるほどと思わせるものがある。