ひきつづきP2Pについて反論に対する反論を頂いた

■ひきつづきP2Pについて反論に対する反論を頂いた。久しぶりの骨のある反論なので今回もここでさらに「反論」させて頂く。昨日の僕の反論は「P2Pと政治的な話の関連性などない」という論旨ではない。「P2Pが反グローバリゼーションだ」という命題は偽で、「P2Pも情報技術である限りはグローバリゼーション擁護的だ」という命題が真だという論旨である。それは「そもそも情報技術を利用すること自体がグローバリゼーションへの幾分かの加担であって」と書いたことからも明らかだ。この点を読み違える読者はまずいないと思う。僕が書いたのは「P2PやLinuxなど個別の情報技術が政治的に右だとか左だとかいう議論はまったく無意味だ」ということであって、「P2PやLinuxが政治とは無関係だ」ということではない。「陽気な米国人」という言葉にももちろん政治的な含意をあたえて使っている。ただしそれは「陽気な米国人」が集中処理型のアーキテクチャよりP2Pを喧伝しているからではなく、その逆だからでもなく、集中処理型であろうがP2Pであろうが、個別の技術内容が何であれ、情報技術を喧伝すること自体がきわめて政治的、しかもグローバリゼーション擁護的だからである。そういうわけで僕は初めから政治的なことを言おうとしていたわけで、この読者の理解は完全に正しい。昨日の僕の反論もこの読者の理解に沿った内容なのだから、「そうそう、情報技術を使うこと自体が政治的、こちらの考えていたこととピッタリ!」となるはずだ。ところがこの読者は僕が反論したという事実そのものから、自分の理解が間違っていたと早合点してしまったようだ。その早合点の原因はおそらく議論の内容にもとづく合理的な判断ではなく、僕の反論がこの読者に与えた精神的なプレッシャーだと思われる。いままで僕の文章が「威圧的」だという感想メールは受け取ったことがないが(たぶん「威圧的」と感じる人はこんなページ二度と見たくない!と思うのだろう)、この読者は僕の文章は人を「威圧」していると書いている。しかしこの読者がそう感じたのは、僕とこの読者の特別な関係によるものに違いない。それはそれで僕ももう少し言葉の政治的含意に気をつかわないといけないなぁ、と反省させられた。個人的なことは政治的なことだから。