樋口一葉『大つごもり』

■こういう本をいままで読まずに過ごしてきたかと思えばそのことがひどく悔やまれる。先日とある酒席で例によってウーロン茶を飲んでいた僕に「酒が飲めないんじゃどうやってストレス解消してるの」とたずねた人があったが確信をもって言おう。読書がストレス解消法だ。
ストレスを「抑圧」ととれば目には目をで酒なりニコチンなり別種の力を借りなければならないが、それは生活が仕事に従属しているためだ。そもそも仕事と生活はどちらが主従ということはなく二つの並行した世界である。だから仕事に疲れれば生活に逃げればよい。生活に倦めば仕事に逃げればよい。
僕にとって読書は生活の不可欠な一部であり、仕事のために生活がある人の言う「ストレス解消法」にあたる。このページで既に紋切り型になっている「酒の力を借りなければ本音の言えないサラリーマン」が活躍する年の瀬にふさわしい『大つごもり』という題名の作品で始まる角川文庫版『たけくらべ・にごりえ』こそ僕にこれまで読まないことを悔やませた本、「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来にはかり知られぬ全盛をうらなひて」とは、たしかに註でもなければ読む気も失せるが、読後感を言えば「まるで溝口健二の映画のよう」、改行も読点も鉤括弧もなく風景の描写も心理描写も会話も切れ目なくなめらかにつながっていながら流れの底からふつふつと人の情念が沸き出すような文体は溝口映画のカメラワークのよう、流れるべきところは流れ、光景の転じるべきところは残酷なほど一転し、『にごりえ』(五)にある主人公お力の心理描写は圧巻、物語の終末とあいまって『近松物語』を思い起こさせるその迫力は改めて一葉に触れる機会を与えてくれた高橋源一郎大センセイへの感謝の念を改めさせた。