大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての<まんが・アニメ>』

■土曜日の退屈しのぎに『教養としての<まんが・アニメ>』(大塚英志+ササキバラ・ゴウ、講談社現代新書1553)を読んだ。文芸批評の手法を借りて漫画やアニメを批評するのは特に『新世紀エヴァンゲリオン』関連で乱発さらた書物だ。
そういいながらこの「think or die」も元はといえば『エヴァ』と柳美里の批評からスタートしたのだけれど、漫画批評はたくさん書かれるようになっていながら、まだ一般的とは言えず、一部のマニアのためのものである。石ノ森章太郎が死んでマスメディアで彼の漫画が評価されるときでも、その評価は常に漫画の内容(「彼の漫画は一流の文明批評である」等)についてのもので、その形式やスタイルの革新性ではなかった。
題材が漫画であれ、映画であれ、音楽であれ、なぜマスは内容についての議論しかできないのか。社会の一歯車になったサラリーマンが自嘲気味に自分について語ることが普通になっている現代にあっても、まだ内容から形式への転換ができないのはなぜか。
「自嘲」というのは自分が生きている日常に関して、その内容にさほど意味がないということを自分で認める行為だろう。だとすれば無意味な内容に対して、形式を楽しむことの優位性が自覚されてもいいはずだが、マスは形式へ離脱する線とは逆の線をたどり、失われた内容の回復を芸術一般に求めているようだ。
この本は専門学校でまんがを教える試みを始めたとき、漫画家やアニメータを目指すために入学してきた生徒たちが、まんがに関する基礎的な教養さえ身につけていないことに危機感をもったことから書かれた本のようだ。漫画に限らず、小説を読まない小説家志望者、映画を観ない映画監督志望者はたくさんいるだろう。
おそらく「古典」の軽視は形式の軽視と表裏一体である。なぜなら古典に描かれる内容は現代の僕らからすれば陳腐きわまりないからだ。古典の価値は形式の革新性にこそある。それを理解していない人間が作る側になれるわけがない。ってことは鑑賞者としてのマスが形式に無関心なのは、致し方ないということだろうか。