最近よく考えるのは「変わる」ということはどういうことだろうか

■最近よく考えるのは「変わる」ということはどういうことだろうか、ということだ。政治的な文脈で、守旧派と呼ばれる人たちの中には、あえて変わらないことを選んでいる人たち、単に変わるか変わらないかの判断をできないで結果的に変われていない人たち、自分が変わる必要があることさえ認識できていない人たち、世の中に「変わる」という行為が存在することを知らない人たちなど、さまざまなパターンがありそうだ。しかし守旧派の現象面での多様性をいかに追求したとしても、そこには「変わる」とは何か、という根本的な問いが残される。「変わる」とは少なくとも部分的な自己同一性の否定だ。もしも変わることへの拒否の動機が単なる利害から出ているなら、変わることは根本的に不可能なはずだが、実際には変わるように説得する余地が残されているのだから、「変わる」ことへの動機は利害とは別のところにあるはずなのだ。「変わる」ことへの拒否の一つの動機は、自分の意志に反して変化を強要されることだろう。しかし「変わる」必要性の自覚は、完全な自己肯定という状態へ、わずかながらの自己否定が外側から他者によって挿入されることによって初めて生まれる。だとすれば「変わる」必要性の自覚は、その始源においてつねにある種の強制であり、暴力なのだ。ただ、そのわずかながらの自己否定を挿入する他者の声が、内なる理性の声である可能性は残されている。それが説得ということだろう。物理的な他者による説得が内なる理性の声を呼び覚ますとき、いったい僕らはその人の内にある何物に語りかけているのだろうか。信頼すべき理性か。
■以前より週末にテレビを見ている時間が格段に多くなった。くだらない番組が多くなったなぁと感じるのは、実は昔から下らない番組が多かったのが、こちらが老成したせいでやっとのことで下らなく実感されるようになったということだろう。中でも比較的まともと思われているフジテレビ『あるある大辞典』を偶然目にしたとき、ビタミンやミネラルの効用について、有効な食事の一例として「チャーシュー麺とギョーザ」の組み合わせが紹介されたとき、僕は唖然としつつこの手の健康番組の本質を一気に観取してしまった。健康番組はありとあらゆる食材や健康法の効果を毎回検証していくが、それらすべてを帰納法によって一つの結論に導くことができる。それは「バランスのとれた生活をしましょう」という結論だ。健康番組は何年続こうがこの結論以上のことを僕らに伝えない。あとは視聴者がそれを実践するかしないかが残るだけであって、各回の放送で紹介された健康法をいちいち習得しようなどということは無意味だ。おそらく僕がテレビ番組を見て面白いかどうかを判断する基準になっているのは「一回性」だろう。毎回の放送から帰納法を使って一つの結論に集約できるような番組は見る価値がない。逆に、一回一回そこにしかない何かが見られるような番組、あるいはそもそも帰納法で何らかの結論を引き出すことのできない、別の言い方をすればどこか一点に収斂するのではなく、単に際限なく発散していくだけの番組、具体的にはドキュメンタリーやある種のお笑い番組など出演者の即興性が生きている番組なら面白いと感じられるらしい。しかし僕の悲しさは『あるある大辞典』のような番組を毎回の放送内容について面白いかそうでないかという次元で楽しむことができない点だろう。たった一回の放送分のほんの数分を見ただけで、たちまち僕の思考はその回の放送内容から遊離してメタレベルをただよい、放送内容についての思考から、そのような放送内容を産み出す番組についての思考、さらにはそのような番組一般への思考へと抽象度を高めながら浮き上がっていく。別にこんなメタ思考を自慢したいわけでもなんでもなく、否応なしにそうなってしまうことが悲劇だと言っているのだ。何事も単純に楽しめないのだから、これが悲劇でなくてなんだろうか。