日本人の権威主義の根深さ

■ものすごい皮肉がさらっと書いてあるのが英『The Economist』誌の醍醐味だが、今週号の森内閣批判記事もその例に漏れなかった。森首相が単なるあやつり人形だ、という批判は日本人なら誰でも分かっていることなのだが、おもしろいのはこの記事の最後のパラグラフだ。
曰く、「目まぐるしい経済成長が日本の政治を眠らせた。その空白を埋めたのは権威への盲従だ。経済状況が徐々に改善するなかで、日本人は目を覚まし始めている」。つまり森首相を選んだ日本人にの権威主義にこそ根本的な原因があるというわけだ。
よく日本企業のサラリーマン社会では「声の大きな人が勝つ」と言われるが、これも日本的な権威主義の一形態だ。意見の内容そのものではなく「声の大きさ」でしか判断できないというのは、「私は考える能力がありません」と言っているのと同じことだ。日本人の権威主義は一人ひとりにまともな判断力が備わっていないことの裏返しにすぎない。
そう考えると長野県や東京都の知事も本当に人々のまともな判断力で選ばれたのか疑わしい面がある(両知事自身の善し悪しを言っているわけではない)。同じ人々が衆議院選挙では自民党を含む保守連合を勝利させているわけだから。
つまり長野県民は田中氏の勝利が初めから分かっていたから、田中氏に投票したのではないか。石原氏についても初めから石原氏が優勢だったから石原氏に投票したのではないか。市民は最もふさわしい人物を自分で判断したわけではなく、最も当選しそうな人に投票したにすぎないのではないか。
誰が最も当選しそうかはメディアなど第三の権威がそれとなく人々に知らせる。どこまで行っても「誰か権威となる人」の判断にすがっているだけで、自分で考えているわけではない。たとえ声が小さくてもあえてその意見を採る健全な判断力。それを日本人が失っているのであれば、政治が迷走するのは当然と言えば当然。
よく言われるように、この国民にしてこの政治あり、ということだ。森首相を批判する前に自分自身が日常生活で権威におもねず自分の頭で考えているかを反省するべきだろう。