長野県庁幹部の品性を疑う

■長野県庁幹部の品性を疑う。初登庁の田中康夫知事へのあの対応はいったいなんだろうか。きわめて見苦しい。大人げない。田中知事自身の評価はこれからの業績にかかっているので、現時点でどうこう言う問題ではないが、県庁幹部らの態度は単なる嫌がらせ、小学生のいじめ以下だ。県民に対する冒涜と言われても仕方ない。一般市民を心の底ではバカにしながら仕事をしているお役人たちの本音が垣間見えた「事件」だ。お役人たちは他人に「選ばれる」とか、他人に「評価される」経験がないから、長年の勤務の惰性の中で自分たちが県民の税金で生活していることを忘れ、ああいう県民の意思を冒涜するような態度を平気でとってしまうのだろう。
■知事vs職員の対立は長野県だけでなく東京都知事の就任初期にも見られたが、これらの事例はお役所という特殊事情を割引く必要がある。ただ一般の企業にも、教育現場にも、そしておそらくは日本のいたるところ「閉鎖的な集団」は存在する。僕自身「パッケージソフト」などという言葉を口にした途端にバカにされるという経験したことがある。組織人なので自分の意見にあえて反するようなウソもつくが、それは将来的に自分の意思を貫くための方便である。こちらはそこまで考えて立ち回っているのだが、額面どおり受け取る正直な人に対しては罪悪感を抱いてしまうだろう。ともあれ開放的な組織と閉鎖的な組織には歴然とした差異が観察できる。そのことに自分で気づけなくなったら、そこで組織の成長は止まる。
■このホームページが読者に与える効果にはいくつかの特徴がある。その一つに次のようなものがある。僕としてはその人に向けて書いたつもりは全くないのに、読者の方が勝手に自分に向けて書かれていると思いこむというものだ。例えばAという出来事をヒントにして批判を書いているのに、僕と面識のある読者が自分のことを批判されているのだと勘違いする、などのパターンだ。たぶんこう書いていること自体を「私のことだ!」と勘違する読者がいるに違いない。そういう読者の方に申し上げたいのは、「まぁそう自意識過剰にならないで。僕は個人攻撃のような不毛なことに頭を使うほどヒマではない」ということだ。たとえ僕の批判が特定の個人との軋轢をヒントにしていたとしても、エッセーを書くにあたって僕自身にふりかかる個々の事件が解決されるかどうかはどうでもいい。それらの事件から他の人にも当てはまるような普遍的な論点をいかに抽象化するか、それこそが重要なことなのだ。個人的な生活に終始拘泥するならわざわざホームページで公開する価値があろうか(多くの「日記」サイトはそのレベルにとどまっているが)。個人の特殊性をカッコにくくって、個々の事件の本質をいかに記述できるか。それがこのページの目指すところであって、僕が出会う個々の事件について愚痴を言うことが目的なのではない。それを理解できない人はこのページを読まない方がいいということになろう。