童謡『赤い靴』の少女の実話

■オリンピックの英国の入場行進を見て思い出したのだが、広末涼子が出ている「はちみつ黒酢」のCFソング、「泣ぁ~きながぁ~らぁ~」ってやつは何回聞いてもエルガー作曲『威風堂々』に聞こえるのだが、そうなんだよね。
■先月横浜に遊びに行ったとき、横浜港めぐりの遊覧船「赤い靴」号が「マリーン・ルージュ」という名前に変わっていることに気づいた。ルージュはフランス語で「赤」を意味するのでそれと分かったのだが、そこで同行の人と童謡「赤い靴」は実話かどうかという話しになった。
今日何気なくみのもんたの昼の番組を見ていたら、どうやら明治44年の今日9月15日が赤い靴の少女、岩崎きみが9歳で夭逝した日らしいことがわかった。静岡県清水市に生まれた岩崎きみは、諸事情あって正式な結婚できなかった母親とともに逃げるように生地を離れて函館にわたった。そこで母親は北海道の開拓にたずさわっていた男性と結婚する。
極寒の開拓地に幼い子供を連れて行くわけにもいかず、二人はきみを函館の米国人宣教師夫妻に養子に出して留寿都村に入植。その入植事業も失敗に終わり、夫妻が札幌に移り住んだとき、当時新聞社に勤務していた野口雨情と出会う。
野口は夫妻から少女の話を聞き、異人さんに連れられて異国の地で幸福に暮らす少女のイメージをふくらませて「赤い靴」の詞を完成させた。少女を預かった宣教師夫妻は日本での任務を終えて帰国するため函館から上京。ところが長旅の途中で少女は肺結核を患い、夫妻は帰国予定を延期して港区の鳥居坂教会で少女の看病につとめた。
米国へわたる旅行にはとうてい耐えられないと診断され、宣教師夫妻はやむなく少女を麻布十番の孤児院に預けて帰国、少女は生みの母にも育ての母にも看取られないまま9歳で独りこの世を去った。それが明治44年の今日というわけだ。実の両親も宣教師夫妻も少女が夭逝したことは知らなかったという。
これらの事実が明らかになったのは、実の母親の妹が生前姉から聞いていた話を昭和48年に北海道の新聞社に投稿したところ、記者が興味を引かれて調査したその結果だという。ということで、実は童謡「赤い靴」のモデルとなった少女は横浜とは何の関係もなかったことになる。単に野口雨情のイマジネーションが少女と横浜を結びつけただけなのだ。むしろ僕が今住んでいる港区麻布の方がよほど少女と因縁の深い土地だ。麻布十番の孤児院跡には少女の銅像が立っているらしい。今度都バスで「一ノ橋」駅を通ったらバスを降りて探してみよう。