アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』

■アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』を観てきた。映画そのものは『イヴの総て』を下敷きにして『欲望という名の列車』の劇中劇という、多少あざといと言えるほど凝った構造になっている(アカデミー賞で評価が高かったのはそのせいもあるだろう)。おまけに3人のエステバンが登場し、生と死、知と無知の2軸に沿ってこの3人を構造分析すればちょっと面白いエッセーでも書けそうだ。
だがそんなエッセーを書く気になれないのは、『イヴの総て』をすっかり忘れてしまったことや、もう一つこの映画の下敷きになっているカサヴェテスの映画『オープニング・ナイト』も忘れてしまったことだけではない。物語を単なる虚構として処理できない今の僕の状況のせいなのだ。
この映画はさまざまな「不在」をめぐっての物語としても読める。たとえば人が何年も独り暮らしをしているとしても、それほどの孤独は感じられないだろう。孤独とはむしろ、かつて存在したものがいなくなること、その不在によってもたらされる感情だ。どこかの小説家が「孤独を恐れるなら結婚するな」という言葉を残しているらしい。
今まで僕はこの言葉を「いかに理想の人と出会ったと思っても、お互いを完全に理解できる相手などどこにもいない。理想の人と出会ったと思いながらお互いを理解できないのは、孤独よりも不幸だ」という意味に解釈していた。しかし別の解釈もありうる。
つまりこうだ。「いちど結婚によって孤独を忘れてしまったら、何十年か後に愛する人を失ったとき感じる孤独は死よりも耐え難いものになるであろう」という解釈。人を愛する(たとえばこの映画の母親のように息子を愛する)ということは、将来待ちかまえている耐え難い孤独を覚悟するということである。
ただ、言うまでもなく人は死すべきものであり、死のそのとき、人はいくら多くの友人に恵まれていようと、たった独りで死ぬほかない。ならばそのときまでは、孤独という疫病神とはむしろ手を切るべきではないか。いやに浪漫派っぽい日記で申し訳ないが、僕はどうやらそれほど人を愛してしまったらしい。