KRAFTWERK『Man-Machine』

■通勤途中にKRAFTWERK『Man-Machine』を聴いていたのだが、彼らはこのアルバムを作っているとき、自分たちの豊富なアイデアを十分に実現できない電子音楽の技術的な限界を嘆いていたのか、それとも電子音楽のすばらしさを単純に讃えていたのか、いったいどちらだったのだろう。
当然のことではあるが22年前の電子音楽を聴くと音がスカスカすぎて、カシオトーンで宅録したんじゃないかと思えるほどだ。ただ当時そのままのライナーノーツを読む限りではKRAFTWERKは自分たちが切り開いた新しい音楽の可能性にわくわくしていた後者のパターンではないかと想像する。
それでいてこの曲想の貧弱さはどういうことだろうか。やはり彼らが西ドイツに住んでいたからではないか。同年代の英米のロックと比較すると、それが電子音楽であるか生音であるかにかかわらず、メロディーライン、多声的な展開、コード進行など、もうちょっと豊かな曲想が出てきてしかるべきだという気がしてならない。
たとえば2000年現在のTECHNOを聴くと、音に厚みや広がりがあるという技術的な差異だけではなく、やはりジャンル横断的な音楽そのものの豊かさがある。そう考えるとTECHNOはその名前が技術的側面を強調しているのとは裏腹に、ジャンル横断的な音楽への志向がまずアーティストたちの着想として存在して、それを実現可能にする技術として電子音楽がおまけで着いてきたようなものではないか。TECHNOを面白くしているのはR&Bやパンク・ロックとの混血があったからこそという気がする。
KRAFTWERKに比べてYMOの方がはるかに曲想が豊かだし、音はスカスカでもアイデアは面白い。第二次大戦後、世界の主流になれなかった西ヨーロッパの文化的・技術的貧困がKRAFTWERKに端的に現れているような気がして、聴いていてちょっと悲しい。西ヨーロッパの芸術はおそらく後期ロマン派の時代に終わってしまったのでは?(そういえばN響アワーに出演していた美輪明宏氏がそんなことを言ってたな)